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ブログ - 201809のエントリ


前頭葉の活性化が小脳化する「坐禅の効用」⑬
(五)身体機能への効果(脳科学の見地より)
 
坐禅の効用は精神への作用ばかりでなく、体の健康にも多大な効果があるのですが、それが医学的にどういうメカニズムになっているのかを、最近の脳科学の知見を引用してお話ししましょう。
 まず、坐禅の三昧に入ると、脳はどう変化するかが最近の医学研究の情報からだんだんわかってきています。
「数息観三昧に入ると頭頂連合野がサイレントになり、それと入れ替わるようにして、前頭葉が活性になる」。
 これが坐禅の脳科学の基本現象です。
 この現象がアメリカの脳科学者の実験で
確証されてからすでに十数年経過しています。
この知見は、京都大学医学部名誉教授の本庄巌先生(人間禅名誉会員)によって紹介されたものです。
 本庄巌先生は、「お釈迦様の脳」を研究され、坐禅で三昧に入り前頭葉を活性することを長年継続すると、前頭葉の活性化が小脳化するといわれています。つまり前頭葉の活性化機能が日常的に増強されるということです。
 この本庄先生の「前頭葉の活性化が小脳化する」ということこそが「人間形成とは三味が身につくことである」ということの医学的表現です。
 毎日坐禅して、線香1本焚く時間の三十分から四十五分の坐禅の推奨を、「一日一炷(ちゅう)香のすすめ」として古来より口伝されてきています。
 その大切さ意義深さを最近の脳科学は、臨床的に証明しているのです。
(丸川雄浄著「坐禅の効用」より)
 
 
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荻窪禅会だより

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人間禅東海岐阜・三重 2018/9/7 11:08
八月初旬に岐阜洞戸坐禅道場で開催された第2回オール東海摂心会(坐禅体験会)に参加されていた、東京荻窪禅会の中川香水禅子よりのお手紙です。

お世話になっております。
829日から92日まで、杉並区善福寺清明庵において、葆光庵丸川春潭老師ご指導の下、第2回東京摂心が開催されました。
結制に先立ち、下記のとおり一名の進級式が、さら2日目に2名の入会式が挙行されました。
荻窪禅会会員のほか、伏龍庵老師、名古屋、房総、水戸、東京支部からも御参加いただき、合計30名が参加されました。
作務では、名古屋支部の樹徳庵広瀬自観老居士による庭の剪定、草むしり、門扉の清掃等により見違えるように綺麗になり、また、午後の作務では、名誉会員である井上和英先生、加藤達人先生の御指導の下、法定の型の稽古を行いました。
さらに、会員2名による法話(小川心耕居士、中川香水禅子)とご提唱(新編碧巌録第1則「寒暑到来」)がなされました。
円了後は、文化講演会「瞑想と禅」として、吉村妙幻禅子の上方舞とフランス人女性によるインドの古典舞踊とのコラボレーションが披露され、国際色豊かな会となりました。
無事に円了できたのも、会員の方々のご支援があってこそであり、心より感謝申し上げます。
今後とも、何卒、ご指導いただきたく、御願い申し上げます。
(中川香水)

 
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四日市禅会の芳光です。今年は酷暑でしたが、朝晩は漸く涼しくなり、コオロギや鈴虫の声もちらほらきこえてくるようになりました。
さて、去る824日(金)〜26()
台風の影響も心配されましたが、三重四日市摂心会(参禅会)in久居が無事、終了しました!
 
今回は、四日市禅会では初めての津市、久居での開催、くもん久居新町教室を禅堂に、熊谷宅を参禅室に行いました。二日目には、久居駅ビル、ポルタ久居三階の文化交流室で剣道古流形、直心影流法定之形稽古の実習をしました。長年古武道、剣道に携わっている小川さんの指導のもと、子供達を含め、数名が熱心に稽古に参加、竹刀ではなく、重たい木刀に、目を白黒させながら、大人も子供達も全身汗びっしょり、頑張りました。
 

又、ポルタ久居での講演会では、四日市禅会会長、エンジニアリング()勤務の田中さんから、「坐禅の効用について」と題して、ご自身、社会人として責任ある立場からのエピソードを織り交ぜ、わかりやすく話して頂き、我が身を振り返りつつ拝聴させて頂きました!

懇親会では、近所の親子がご馳走持ち寄りでの参加があり、子供達にとっては、食べて歌って踊って、最後は花火で締めくくり、夏の夜の楽しい宴となりました。
残暑厳しい中、老師をはじめ、名古屋から駆けつけて頂きました、名古屋禅道場、道場長の蓑輪清凛さん、今回の剣道インストラクター、四日市禅会常盤静坐サークル会長の小川さん、ご講演頂きました禅会長の田中さん、他参加されたみなさまに感謝申し上げます❣
 
次回の摂心会(参禅会)は9月8日(土)〜9(日)日四日市少年自然の家で予定されています。自然豊かな地で、秋の心地よい風をうけ、心身共にスッキリ、リフレッシュな週末を過ごしてみませんか?坐禅会開催地、少年自然の家では、週末毎に、親子向けの工作やダンス教室等イベントも開催され、誰でも参加する事ができます。
是非ご家族でお気軽に♪
 
毎週日曜日には、津市久居新町1061-3、熊谷宅にて、午後4時から、静坐会を開催しています。子供達でも10分ほど集中!坐禅、数息観(呼吸にあわせて1100を数える事に集中する)を無料体験することができます。


 
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  謂つべし、これを心に得、これを手に応ずれば、便ち能く大地を変じて黄金となし、長河を撹して酥酪となすと。豈平生を暢快にせざらんや。
 

5段目は修行した結果 開ける世界を表しています。

その開けた世界というものは、このような世界なのであると。 

もしこれを得ることができたなら、見性すれば世の中が一変する。

それはあらゆる大地がすべて、最高の価値のある黄金になってしまうようなものだ。

あの揚子江のような大きな川をちょっと掻き回すと、見たこともない食べたこともないおいしいチーズのような乳製品になってしまうようなものである。これはたとえであって、そのような精神の革命が起こる、ということを言っているのです。

つまり、本当の見性がいけて、それを日常に使うことができれば、精神的な革命が起こったように、日常生活が愕然と変わるのです。

本当の個性が生き生きと出てくるし、どんな社会的な場にいても自信に満ちた生活をすることができ、正しく楽しく仲の良い日送りをすることができるようになる。
 禅というものはあらゆる精神的な悩みを根本的に解決するものです。
ぼんやりした不安を解消するなんてことに留まらず、どんな絶望的な状態でも自分の持てる力を最大限に発揮して、世のため人のために力になることができる。

公案を手がかりにして正脈の師家に参禅し続ければ誰でも禅の真理に到達することができる。

見性すれば素晴らしい世界が開ける。

しかし一端の見性ではだめで、更に深めていかなくてはならない。

3年、5年、10年、30年、死ぬまで。

修行を続けておれば90才になっても100才になっても人間形成の向上は必ず進み深まるのです。

死ぬまで向上し続けるのが、正常な人間の生き様なのであり、本当に人生を楽しく味わうということができるのです。

本文から外れますが、11炷香の重要性について付言しておきます。

われわれは専門僧堂で生活しているわけではない。

摂心会がない時は、自分の日常生活の中で工夫をしなければならない。

毎日意欲を持って数息観の質を向上していかなければならない。

修行向上のために有効なのが数息観評点記録です。



両忘老大師筆「葦葉の達磨」

 
 

  只管冊子上に言を念じ、禅を訪ぬること莫れ。

禅道は冊子上にあらず。

古徳許多の艱難を喫して方に此の道を得たり。

我 豈独り然らざらんや。

宜しく二祖の断臂と雲門の折脚を思うべし。

勉旃勉旃(べんせんべんせん)。

 

本を読んでも禅はわからない。

「禅道は冊子上にあらず」というわけです。

禅は知性ではなく感性ですから、相対樹から行によって絶対樹に移らなければ、人間形成の禅に入って行けない。

古人は様々な艱難を乗り越えて道を完成させて来られた。

宗活老師だって耕雲庵老師だって例外ではない。

頭燃を救うがごとき修行を継続されたからです。

古来禅家では志と精進努力の好模範として「二祖の断臂と雲門の折脚」を挙げています。

「二祖の断臂」とは二祖慧可大師が達磨大師に入門を願い出たときに臂を断ってその意志を示したということ、「雲門の折脚」とは雲門文偃大師が若いころ道を求めて何回も何回も入門をお願いしたが門内に入れてくれなかった。

あるときやっと門を開けてくれたがすぐに門扉を閉めようとしたので、咄嗟に片足を門内に入れたから大きな扉に挟まり足の骨が折れたという故事である。精進努力することを「骨を折る」というのはここから来ている。

「勉旃勉旃」努力せよ、努力せよというわけです。

頭の善し悪しでも社会的な地位でも何でもない、志を強く持ち続けて頭燃を救うがごとき努力を継続することだけが大成する必要条件であります。

第一回 平成2927日 東京支部摂心会 仰月庵呼龍老師提唱 
第二回 平成3077日 青年部夏期摂心会 葆光庵春潭老師提唱
(人間禅青年部提供)



 

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 諸大徳 参禅を要すや、須らく放下着すべし。

箇の何をか放下せん? 箇の四大五蘊を放下し、無量劫来の業識を放下し、自己脚踉下に向かって推し窮め看よ。

これ何の道理ぞと。


三段目は修行というものの進め方の基本を説明しているのです。

修行者よ、参禅が何よりも肝心であるよ!その為には全てのものを捨てなければ成らないよ!と。(参禅を要すや、の「や」は、疑問ではなく強調の助詞)

そして、何を捨てるのか?四大五蘊を捨て、無量劫来の業識を捨て、自分の足元に向かって究め看よ、と。

この看よ!が、着目すべき点であり、「見よ」ではいけないのです。

「看る」とは、相対的に公案を考えるのではなく三昧になって公案と一体になれと云うことです。これ何の道理ぞ?も、考えるのではなくあくまで次に出てくる工夫を示しているのです。

四大というのは地水火風という肉体を構成する要素、五蘊とは五蘊階空の五蘊、色受想行識であり、四大五蘊で人間を指している。

つまり、肉体的精神的働きを一時棚上げにして、自分自身を対象化せず、自分自身の存在の根底を内に向かって探せ、ということなのです。

それは一体どういうものかと。

しかも考えるのではなくて三昧になって究めろ、と。


 
両忘庵釈宗括老師の書画(人間禅蔵)

 功夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし。精神を奮起し、片時も放遅すること莫れ。無理会の処に向かって究め来たり究め去り、究め究めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照らさん。
 

4段目は、修行のやり方工夫の仕方、修行するときの精神の持ち様を示し、このやり方に従えば必ず見性することがでると云っています。
功夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし】と、両忘老師が声を大にして叫ばれているのです。公案の功夫(工夫)は、頭に火が付いたとき思わず何はさておいても急いで消すように徹底して実行するように工夫せよ!と。

そしてあらゆるものに優先して精神を集中し、片時も放置するなと。(これは日常の数息観においても同じで、頭燃を救うがごとくでないと数息観は深まりません。)

【無理会(むりえ)の処に向かって究め来たり究(きわ)め去り、究め究めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照らさん】公案工夫の仕方であってまことにその通りであり、実に的確な表現です。

これが先ほど云ったことですが、相対樹ではなく絶対樹で工夫することを言っているのです。

頭頂葉(いわゆる頭)で考えるのではなく前頭葉を活性にして、すなわち三昧になって精神を奮起して全精神を集中して究め求めるのです。

これが禅の工夫の要点です。

【無理会の処】つまり知性的には理解できないところが公案の工夫の場です。無理会の処に向かって三昧になっていく。

「本来の面目とは何か何か何か・・・・」これを、頭燃を救うが如く急切にやれと。それをずーーっと続けて続けて続けていく。
 

そうすると自然に機に触れて、【即ち心華発明して十方刹を照らさん】となる。心華発明とは、心の華が開くということ、見性するということです。

十方刹とは、あらゆる方向ということです。

つまり、見性がいけて自己の絶対性が分かるということです。

公案【無理会の処】にずーっとずーーっと迫っていけば、必ずそういう時期が来る。

見性すると云うことも今自分はどの程度なのかも考えてはいけない。

あらゆる念慮を捨て去る。

その集中を切らさない。

そこが難しく最も重要なところです。

公案の工夫は公案三昧にひたすら浸るということです。

三昧に浸る時間が必要です。

だから摂心会というものがあって、日常の生活から遮断された時間に身を置くことができる。

参禅の時だけ道場に来てでの修行ばかりでは、禅学は進んでも人間形成は進みません。

摂心会期間中は道場に寝泊まりして就寝前後も三昧に浸る時間を持つことが大切なのです。
 

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亀鑑・きかん(両忘庵釈宗活老師)


         
 両忘老師は、人間禅の創始者である耕雲庵英山老師の師匠であり耕雲庵老師は両忘老師の嗣法者です。

そしてこの亀鑑は、人間禅ができる前の両忘禅協会の会下の者に対して両忘老師が示されたものであり、両忘禅協会の会員はことあるごとにこれを唱えていたようです。

50年前、両忘禅教団から引き続き人間禅の会員になった関西地方のある支部で某老居士が、ある時この亀鑑を支部員に配られ、それ以降 日常の支部行事では常にみんなで唱えておりました。

亀鑑とは、亀は占いの道具で、古代では亀の甲を焼いて出来た割れ目によって吉凶を占い、それを行動の基準にしていたのです。

鑑はかがみ(鏡)に通じ、人の行いの手本のこと。

つまり亀鑑とは、禅の修行の手本であり、ここに示されているとおりに修行せよという両忘老師のお示しであります。



亀卜

 

  諸大徳 此の事 智にも属せず、不智にも属せず、仏に在って増さず、凡夫に在って滅せず、八解六通心地に印し、三身四智体中に円かなり。

心外に向かって求むること勿れ。
 

まず、禅の修行するときの大前提である仏教の真理そのものについて示されています。そして修行の大きな方向を示されています。

冒頭に「諸大徳」といっていますが、これは禅宗に於ける修行者の注意を喚起する呼びかけの言葉です。

次に釈迦の悟りというものは、智でもなければ不智でもない、相対的のものではない、絶対である、と。

「仏に在って増さず、凡夫に在って滅せず」とは、仏には沢山あり、凡夫には少ないというものではない。絶対の真理(本来の面目)は、あらゆる人に平等に備わっている。あらゆる人に等質、等量に、この五尺の肉体に備わっている。

「八解六通心地に印し、三身四智体中に円かなり」(八解とは、涅槃経に書いてあるといわれる八種類の解脱、六通とは、禅定を修めることによって得られるという超人的な力、三身とは法身、報身、応身という仏の三つの身体、四智とは、仏の四つの智慧、大円境智、平等性智、妙観察智、成所作智)、八解六通だとか三身四智は、絶対の真理と解すればよい。

修行して絶対の真理を求めるときに、外に求めてはいけない。

自分自身の中に求めなさいといっているのです。

初心者のよくやる間違いですが、仏性(本来面目)を自分の外に求めるのを戒めた指針です。

初則の公案を工夫するときに「外に求めるな」といってもなかなか分からない。これは、対象(本来面目)を向こうに置いて考えるなということであり、外に求めないで内に求めるということは、相対樹で求めるのではなく絶対樹に渡って絶対樹の中に求めよと云うことです。

すなわち相対樹では言葉でもって思考して答えを探して、詰まるところ「本来の面目」を言葉でもって説明してしまうことになるのです。

本来の面目は説明できないものであり、従って室内では、本来の面目そのものを答えとして出さなければならない。

言い換えると相対樹は考える場であり絶対樹は考えない場であり、この入門し最初の公案を授けられた初心者が誰でも一度は填まり込むのが相対樹で見解を出そうとする状態です。

インテリゲンチャほど公案を考えるということから脱却できない。

公案を自分と離して対象化し相対的に客観的に考えてしまう。

こんな状況にいる間は、真正の見解には絶対に出くわすことはありません。あらゆる念慮を捨てて、全ての言葉を捨てて、公案をただ心中で唱え続ければ、自ずと公案三昧になり、公案と自分とが不二一如になってくるのです。

一切の念慮が動かない、考えると云う頭頂葉が静止し、前頭葉が活性になった状態を三昧と云い、これが絶対樹の中で工夫すると云うことです。

初心のうちは公案を工夫するとき、公案を考えてしまいなかなか三昧になれないから、数息観を100ぐらいやってから公案の工夫に移るというのも良いでしょう。 
 

  人心得難く、仏法聞き難し。此の身 今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってか此の身を度せん。
 

自分は人と生まれてきたが、このこと事態、奇跡と云えば奇跡なのです。幸い人として生まれてきたからこそ仏縁に恵まれてこの擇木道場にまでたどり着くことができた。折角の奇跡的な縁を大切にして、人間ならではの仏法の示す真理をしっかり生きている間に掴みたいものである。

真理を求めて禅の修行するのは今現在のこの人生しかない。

今この人生で求めなければ何時もとめるのか。

自分自身の根本的な問題を解決するのは、死んでからでは遅い。

人生は短いから一刻の猶予もない。

年齢に関係ない。今やろうと思った時が最も重要なんです。

そしてそれを継続したときに後ろに道ができている。
 

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