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ブログ - 坐禅の修行によって転迷開悟の実を挙げ、「立教の主旨」について④

坐禅の修行によって転迷開悟の実を挙げ、「立教の主旨」について④

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2019/6/30 9:26

坐禅の修行によって転迷開悟の実を挙げ、「立教の主旨」について

 
次に「立教の主旨」は、第二として「我がそうぎゃ人間禅は、坐禅の修行によって転迷開悟の実を挙げ、仏祖の慧命を永遠に進展せしめる」としている。これは、第一に掲げられた前述の目標を達成するために、如何なる道を選ぶかという具体的な道の選択を述べたものである
 いうまでもなく、「我がそうぎゃ人間禅」の選ぶ道は、祖師禅を基盤とする人間形成の禅の道である。
 祖師禅は、釈迦牟尼仏の開示した慧命を、仏々祖々一器の水を一器に移すように滴々相承し来たったもので、達磨大師の一枚看板の直人心見性成仏の道といってよい。
 四句誓願では、煩悩無尽誓願断の次に、その目標を実現するための学道(道)として法門無量誓願学をあげ、最後に無量の法門を究極まで学びきわめせしめる無二亦無三(むにやくむさんー二もなく三も無い)の道として仏道をあげ、仏道無上誓願成としている。
 ここにいう仏道とは、宗門によって異なった理解がなされうるが、一般的にいえば{法華経}の開示した一仏乗の道であり、その一仏乗の内実がわれわれにとっては「直人心見性成仏」の禅道である。
「立教の主旨」では、これを「坐禅の修行によって」といい、「転迷開悟の実をあげ」と述べている。
 元来禅門の修行は、坐禅を離れてはあり得ない。仏教の法理がどんなに深く理解されていても坐禅の行道の裏づけのないものは、禅ではない。
 古人が「法の深浅を選ばず、修行の真偽を弁(わきま)うべし」としているゆえんである。
禅は単なる信仰や思想や道徳ではないのである。
しかもその坐禅は、単なる個人の静坐ではなく、仏々祖々が滴々相承し来たった慧命に参ずることによって、五慾七情の煩悩具足の身がそのまま転迷開悟されて「見性成仏を証する」祖師禅の弁道なのである。
そこには、正脈の法統によって裏付けられない単なる個人的修養としての坐禅とは本質的に異なった内容がある。
 古来、嗣法ということがやかましくいわれるゆえんである。
 禅門が特に他の宗門にすぐれているのは、修行者の境涯の深浅邪正を鑑別できる生きた人間が師家として存在し、しかもその証明の内容が個人免許ではなく
滴々相承の仏祖の慧命によって裏付けられているからである。
 どんなに信仰や修法(修行方法)がすぐれていても、それを信じて修法する当の人物がほんものでなければ画餅に堕せざるを得ない。問題は、ひとり一人の信の内容の真偽を鑑別して、根拠のある証を与えうるかどうかである。(次は「仏祖の慧命を永遠に進展せしめる」について)(要道)

 
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