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ブログ - 20190903のエントリ

太玄通信(9月):暑さもやっと一息です

 

 

お盆をすぎてやっと暑さも一息ですね。

昨日は人間禅名誉総裁老師、名古屋道場担当師家龍光庵老師、三重禅会担当師家金剛庵老師、久居倫理法人会田中会長さん、東京支部の玉道居士を囲んで、人間禅津久居道場・久居日本文化研修道場開きを祝い、近鉄久居駅前の伊勢湾海鮮料理「はる家」でみえ四日市禅会一同、懇親会を催しました。

小生は、6才になる娘を連れて参加したため、夜8時には切り上げ四日市の自宅へ電車で帰宅しようとしました。

 ところが阿には駆らず、近鉄名古屋線は人身事故により運転中止。待てど、暮らせど電車は動きません。待つこと1時間半、ようやく運転が再開され、電車に乗り込もうとすると、娘がトイレを催促する始末。電車内のトイレを利用することも考えましたが、再開直後の満員電車ではそれもむつかしかろうと思い、駅でトイレを済ませ、次の電車を待つことに。しかし、次の電車がこれまたなかなか動かない。結局22:30位に電車に乗ることができました。帰宅したのは深夜12時近くで、鬼の形相でまつ妻に平謝りの一日となりました。

  

今日の事故によって、依然と減らない東海地区の輪禍による死亡事故や高止まりする全国年間自殺者3万人の数字が架空のものでない実感に襲われた1日でもありました。

どちらも人間の心が荒廃し、崩壊していく過程にあって、特に日本の少子高齢化、児童虐待などと根は同じように思われてなりません。

子供の教育で思うのですが、日本人は子育て、家庭、学校教育において、幼いころより他家の子と比較し、そう劣っていないことを大切にし、それがすべてで、満足しているように思います。その結果いつの間にか成長しても、常に他人と比較し、他家との優劣をもっとも大切な基準、価値観としているような気がします。洪水のような現代の情報化社会の波の中で、あらゆる面で他人と自分の比較にしか価値が見いだせない習性に囚われ、いつしか心のバランスが崩れてしまうのかもしれません。

敷衍すれば、世界の政治、経済、文化、などあらゆる面でもいえる傾向ではないでしょうか。他との比較を断つばかりでなく、自と他の畔を切ってこそ開かれる道があり、在家の禅、大乗の禅にそのツールがあることを、知ってもらいたいと思うのです。9/28は津・久居の 人間禅津・久居道場・久居日本文化研修道場で、9/29は四日市総合会館にて参禅会を行います。初心の方々、問題意識をお持ちの方々是非いらしてください。お待ちしております。

 

(みえ四日市禅会長 田中太玄)

 
 

 
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父母未生以前における本来の面目、坐禅の効用㊲
二、初関透過(見性)と学生運動

円了懇親会の終了後すぐ神戸駅から準急鷲羽に乗って郷里の岡山に向かいました。

車中からの夕陽をじっと見つめ続けていた自分を今でも鮮明に覚えています。

摂心会の定力が残っているうえに見性できなかった悔しさというか、なにくそという思いが一緒になって車中でも工夫が続いていたものと思います。

岡山駅に着いて、駅の西口から徒歩二十分ほどで父母のいる生家に帰れるのですが、反対の東口に出て岡山朝日高校裏の少林寺へ向かいました。

そこでは阪神支部円了の一日前から耕雲庵老師主催の中国支部の摂心会が始まっていたのです。少林寺の庭には天然記念物の大きな曙椿が植わっていて、その花が坐禅をしていて時折ポタリと音を立てて落ちるのですが、それが今でも耳に残っています。

また雨が降って軒下に雨だれが穴を穿っている光景も鮮やかに覚えています。

花の落ちる音や雨水の光景と自分が一体となっている感覚が無意識にあったように思います。

 

岡山市、少林寺と曙椿(少林寺HPより)

 岡山おおkkk

岡山

 
 次の日の月曜日の午後から火曜日の構後参禅まで一日以上参禅にいきませんでした。
参禅が詰まってできないというよりは、参禅する必要もないといった感じでいたのですが、講後参禅のときに直日の大重月桂さん(後の澄徹庵月桂老師)から、「丸川を参禅させろ!」という檄が飛び、小生の両側にたまたまいた新潟大学医学部五回生の寺島達道さんと中央大学五葉会の森秋月さんに両腕をとられてあっという間に喚鐘台の前まで運ばれました。
小生は抵抗することなく素直に坐って隠寮からの鈴を待ちました。
両腕をとられて引きずるように連れ出された修羅場の直後でしたが極めて冷静に、動ずることなく待っていたのを覚えています。

参禅室からの鈴の音に応じて喚鐘を叩き参禅室に入り礼拝して耕雲庵老師の前に坐りました

顔を挙げて老師の顔を見ますと老師は今までの難しい顔ではなくにこにこされていました。
 「父母未生以前における本来の面目如何?と公案を唱え見解(けんげ)を呈しました。
 老大師は大きな目を剝いて「本当にそうか?」と聞かれました。「何とおっしゃいますか!」とはいいませんでしたが、当たり前ですといわんばかりに大きく「ハイ」と言い、大きく頷きました。

そして「死後における本来の面目如何」を授けられました。
 摂心会が終わって岡山駅のプラットホームまで皆さんと一緒に耕雲庵老師のお見送りに行きました。
 その折、車内の老師と視線が合い、老師の目に引き込まれ、深い感動を覚えたのを今も覚えており、あとから考えるにあのときに人間禅に骨を埋める肚が決まったのだと思います。
 
(丸川雄浄著「坐禅の効用」より)
 
 

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