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ブログ - 20190901のエントリ

円相とは?(その三)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2019/9/1 8:08

これくふて茶のめ  仙厓
 

また、すでに符丁なのであるから、三角であらわそうと四角で示そうと、どう表現してもよいはずである。

しかし、悟りの当体の仏性が真空無相でかつ円満浄明である点に着目して、その仏性をグルグルッと円形をもって形象化したもの、それが禅者のいわゆる円相なのである。

円相とは畢竟するに言語道断な悟りの当体である仏性や本来の面目を、また「本分の田地」などともよばれる悟りの世界を、洒々落々(しゃしゃらくらく)と、時には飄逸(ひょういつ)味さえ加えて形象化したものだ、といって大過ないであろう。       

 (つづく)

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円相とは?(その二)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2019/9/1 7:51

禅と円相
 

 
 禅の修行というものは畢竟(ひっきょう)するに、坐禅の行によって悟りを開き、さらに悟後の修行を継続してその悟りを深め、ついにその悟りと自己とが、いつでも形影相伴う境涯にまで到達することである。

ところでいったい何を悟るのか、悟りの当体は何ものかというと、それは禅定三昧の行によって体得し、冷暖自知するほかはない絶対なものである。それは本来、何とも説明のしようもなく、名付けようもないものである。

しかし、それでは悟りや悟りの世界の消息を示唆することもできないので、この悟りの当体に何とか名称ないし符丁を付ける必要が出てくる。そこで禅ではやむをえず、これを「這箇(しゃこ)、こやつ」などとよびならわしているのであるが、もう少し教理的にも通用するようにというので、一般には「仏性」とか「父母未生以前における本来の面目」とか、あるいは「主人公」などと名前を付けている。

儒教のいわゆる「明徳」や「至誠」も、文字は異なるが実体は畢竟するに同じものである。悟りの当体は本来名のないものであるから、すでに悟りを開いてこれを体得したうえでなら、これを這箇とよぼうと仏性と名付けようと、あるいは本来の面目と称しようと明徳と字(あざな)しようと、一向にかまわぬはずである。

(つづく)

 

 

 

 

 
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