メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2019 5月 » »
28 29 30 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 1
カテゴリ一覧

ブログ - 20190501のエントリ

霰聞くやこの身はもとの古柏、禅者芭蕉読本

(2018、12・25ブログつづき)


     櫓の声や腸(はらわた)氷る夜ハなミだ

   わびて住め月侘斎が奈良茶歌

   芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉


これらの句は江戸深川芭蕉庵での四十歳前後の頃の芭蕉(桃青)の閑寂哀愁の生活の外面内面を語る句であるといわれている。
29歳で江戸にでてより十年ばかり、住居を転々としてようやく安住のところを得たと思った芭蕉庵も、天和2年12月28日の江戸大火により焼失、芭蕉は身一つでのがれた。年譜には翌天和3年3月29日、八百屋お七、処刑さる。享年16歳とある。
また、同年620日、母(実家百地氏)死去。享年不詳、法名―梅月妙松信女。

宝井其角著「芭蕉翁終焉記」に「天和三年(実際は二年)の冬、深川の草庵急火に囲まれ、潮にひたり筈をかづきて烟のうちに生き延びけん、これぞ玉の緒のはかなき初めなり。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して、その次の年夏の半(ば)に甲斐が根にくらして富士の雪のみつれなければと、それより三更月下無我に入るといひけん昔の跡に立ち帰りおはしければ」と、記している。(年譜では甲斐国谷村高山傳右衛門宅に寄留。翌年5月頃まで。)
芭蕉がこののち生涯を旅と観て旅に終わったというのも、この時期にすでに「無所住の心を発し」たということにも起因するとされている。かつて、西行・宗祇を目標に風雅の道に志し、漂泊の想いも胸に去来したであったろうが、「猶如火宅の変」を目の当たりにして、さらに深く感じられたものと思われる。
後年、1819年(江戸後期、文政2年)刊行の夏目成美著「隋斎諧話」では、入庵の頃より参禅の師であった鹿島根本寺の仏頂禅師ゆかりの六祖五平を頼って、翌年の五月頃まで、甲斐に遊んだ事が記されている。六祖五平については未だ諸説異論がある。
芭蕉庵は山口素堂をはじめ知友門人ら五十二名の喜捨によって、天和3年(1683年)冬の頃再建された。
再建当時の記録などが「隋斎諧話」に記載され、寄付額は最も多いもので銀十五匁、少ないのは破扇一柄ともあった。実にささやかなものであったが、芭蕉にとっては門友の温かい志の贈り物であった。

       ふたたび芭蕉庵を造りいとなみて

    霰(あられ)聞くやこの身はもとの古柏(かしわ)(続深川集)


こうして再び庵が再建されたが、その住人たる私はそれ以前の私と何も変わってはいない。まるで枯れてもなお木にまといついている柏の古葉のように。そんな枯葉に霰が当って大きな音をたてている。



写真は柏の木、古柏とは元柏のこと。もとがしわ【本柏】とは;

① 冬も落ちないで木についている柏の葉。大嘗会だいじようえの際に、その葉を浸した酒を神前に供えた。柏餅にも用いる。
② 古くから関係があって、主要なもの。の意。(大辞林)
 
 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (55)