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ブログ - 201812のエントリ

男山展望台からの眺め

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執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/12/29 12:41


展望台から見える三河川合流の眺望

町の南外れからみた風景  男山丘陵と淀川堤防の間に京阪電鉄と街道が通る

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京都歴史探訪―洛東

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執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/12/29 11:48

京都歴史探訪―洛東
 歴史探訪の第1回目に洛東を取り上げた。古代史をまとめる気持ちもなく、写真も撮っていなかったので、今回改めて写真を撮り書き下ろした。当時は初日に石清水八幡宮を訪ねた。応神天皇をお祭りしている。2日目は東福寺をスタートして伏見街道に沿って南へ歩いた。藤森神社に神功皇后とゆかりのある遺跡があるが、前回の宇治の方が応神仁徳とは関係が深い。
<1日目(土曜日)>
 人間禅関西道場は石清水八幡のある男山の西にある。別峰とも呼ばれる。応神とは縁がある。京阪八幡市駅で下車。
神応寺
石清水八幡の別当。元来は神仏習合で八幡と一体であった。明治に分離された。応神の名前をはばかり逆にして「神応寺」という。伏見城の書院を移築して、秀吉像もある。道友との縁で2年間お寺をお借りして静坐会に勤しんだこともある。現在は曹洞宗。
石清水八幡宮
 
京都の鬼門を守るために九州の宇佐八幡から、対岸に勢力をもつ紀氏が招請した。戦略的にも重要な地であった。応神を祭る。源氏が帰依して鎌倉鶴岡八幡に分祠した。最近社殿を含め国宝になった。


注)

応神天皇
おうじんてんのう

記紀では第15代の天皇とする5世紀前後の王者。仲哀(ちゅうあい)天皇の皇子で、母は神功(じんぐう)皇后と伝える。諱(いみな)は誉田別尊(品陀和気命)(ほんだわけのみこと)。筑紫(つくし)で生まれ、母とともに大和(やまと)に赴き、神功皇后の次に王位についたという。応神天皇の代の伝承には、蝦夷(えみし)の朝貢、吉野国樔(くず)の貢献、吉備(きび)の行政的編成などのほか、朝鮮半島からの渡来人の伝えがみえるが、『古事記』や『日本書紀』に記載する伝承の信憑(しんぴょう)性については、文献批判を必要とする。『宋書(そうじょ)』夷蛮(いばん)伝の倭国(わこく)の条にみえる、倭王讃(さん)については、これを応神天皇とする説がある。その諱が別(和気)を帯びており、応神天皇の以前と以後では諡(おくりな)、諱に差異があること、また応神天皇以後と、神功皇后までの説話の趣(おもむき)には違いがあって、5世紀の王陵と伝える古墳が主として河内(かわち)(大阪府)にあることなどから、応神天皇の王朝は新たな河内王朝であったとする説や、当時の古墳文化に注目して、筑紫から東征した騎馬民族の王朝とする説などがある。陵は『古事記』や『延喜式(えんぎしき)』などによれば、大阪府羽曳野(はびきの)市にある恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)(誉田陵(こんだりょう))と伝える。[上田正昭](日本大百科全書)
別当
《元来は本官のある者が別の役を兼ねて当たる意》
 
人間禅「禅83号」誌、私の古代史(その4)-京都歴史探訪に関連してー木戸開善、より転載


 

 
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新年互礼会俳句募集のお知らせ    

師走の候、皆様如何がお過ごしでございましょうか。

さて来る1月3日に行われます、本部新年互礼会の余興として、下記の要領で今年も俳句を募集いたします。

当日互礼会に参加された方全員で厳しく互選、何句かを、各支部へ送ります寄せ書きに載せたい、と考えております。また参会者には景品もご用意いたします。俳句をたしなむ人も、たしなまない人も、ふるってご応募お願いいたします。
 人間禅俳句部 林 玄妙

新年互礼会俳句募集要領

  投句  1人1

 季節  年末・新年の句

  締め切り 1月2日午後6時厳守、林玄妙必着

  応募方法 メール FAX はがき いずれでも可

   できれば各支部まとめていただけると有難いです。。

   年賀状でのご応募はご遠慮願います。

・ メールには開封メッセージをお付け下さい。前回見落としがあり、大変申し訳ないことがありました。

  会員に限らずどなたでも応募可 

  あて先 〒270-0136 千葉県流山市古間木292-41

林  玄妙

TEL・FAX  04-7150-0171

MAIL  genmyo@kir.biglobe.ne.jp
林 信夫 (玄妙) genmyo@kir.biglobe.ne.jp
270-0136 千葉県流山市古間木29241
  TEL 0471500171

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 芭蕉広重北斎&深川萬年橋

隅田川から小名木川に入って最初の橋が万年橋である。江戸時代には、現在の万年橋より西側の河口近くにあり、北斎の絵にあるように美しいアーチ型だった。芭蕉庵はこの橋から徒歩2分くらいで、参禅の師、仏頂禅師の寓居「臨川庵(現臨川寺)」は小名木川の対岸である。また、この橋の袂には幕府の番所があり、積み荷検査などをしていたため、舟の出入りの多さから、高い荷を積んでいても通行の邪魔にならないアーチ型を採用したものと思われる。



葛飾北斎「深川萬年橋下」,歌川広重「名所江戸百景」 より「深川萬年橋」


 「万年橋」という名前の由来は、「永代橋」に対抗したのだという。

広重の絵を見ると「なるほど。亀は万年のシャレか」と思うが、大胆な構図である。ゴッホを始めとする印象派の画家達が手本としたのも当然か。 
広重のこの亀、単なるシャレではない。江戸ではこれには風習があった。放生会(ほうじょうえ)で、捕らわれた生き物を放すことで功徳を積むという寺社の習わし。この絵の場合、放生会が行われたのは多分近くの富岡八幡宮であったはず。
橋の欄干に売り物の亀をぶら下げておいて「お客さん、逃がしてやって下さい」という商いが行われていたのである。落語の『佃祭』では、この「放し亀」の件が語られている。万年橋の形状はユニークであるが、さほどの名所ではなかったという説もある。広重が橋を描かず亀と、その奥に拡がる隅田川や富士を中心に描いたのは、北斎へのライバル心であったという説もある。
 
(日本経済新聞深川専売所HPより引用)

 
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 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな    

  茅舎の感を詠った。古くは台風という語はなかった。今日、台風といえば雨を伴うが、野分(のわき)は風だけである。蕭条たる野分と雨とに、更けゆく夜の感じを音の世界によって把握した句で、境涯的なものがにじみ出てきている。芭蕉三十八歳。談林の波を凌(しの)いできた気息が、おのずから「芭蕉野分して」という字余りとなって、ほとばしった感がある。『三冊子』には「芭蕉野分盥(たらひ)に」の句形で出し、「はじめは、野分してと二字余りなり……後なしかへられ侍るか」とある。
 後年、このように改作したが、改作したものよりもこの字余りの句形の方が、把握の勢いを気息に乗せて生かしているように思われる。
芭蕉葉に雨音を聞く趣は、漢詩の恰好の題材とされたもので、白楽天の「夜雨」や『詩人玉屑』などに見える。
 
柳(うりゅう)の『伊勢紀行』は、「斗時庵が家珍に」として、「老杜(らうと)、茅舎破風(ばうしゃはふう)の歌あり。坡翁(はをう)ふたたび此の句を侘びて、屋漏(をくろう)の句と作る。其の夜の雨を芭蕉葉に聞きて独寝の草の戸」という前文とともに、冒頭の句形で掲出し、「是は深川庵中の吟にて、これより芭蕉の翁とは世にもてはやす事になりしとよ」と付記。
 これによれば、杜甫・蘇東坡の詩を念頭に置いた作で、当時、代表作としてもてはやされたことがわかる。
 「茅舎の感」は、深川芭蕉庵での生活の感慨を詠んだ、という意。茅舎は草葺きの家、あばら屋。
 「芭蕉野分して」は、屋外の芭蕉に野分が吹きつのって、葉のざわめく音が聞こえるのをいったもの。
 「盥(たらい)に雨を聞く」は、雨漏りをうける盥に雨音がしているようす。芭蕉葉に聞くべき雨音を盥に聞くというのである。「芭蕉」も「野分」も秋。
    「野分が吹きつのって、外の芭蕉はしきりにはためいている。雨漏りにあてがった盥には、しきりに雨水がしたたって聞こえる。実に侘びしい茅屋の夜の感

(公立大学法人山梨大学HPより)


深川江戸資料館HPより

寂びとは?
意味 :日本美意識の1つ・弱くなる(光や色が)、色あせる、古くなる

 

  • 使い方:寂しさ(寂しい顔つき)、(寂しい夜道)

さびは、江戸時代中期以降に、茶の湯の美の表現として、「わび」とセットで使われるようになったようです。「静寂のなかに、奥深いものや豊かなものが、おのずと感じられる美しさ」をいい、動詞「寂ぶ」の名詞形です。
「寂び」という言葉は、光や色が弱くなる、色あせるなどの意味がありますが、普通に考えたらよい意味では、使われないような気がします。ただ色あせているような様子であっても、寂しげな景色でも、日本人はそこに美しさがあると、考える感性があるのです。
例えば、秋になると山々に、生い茂っている木の葉が、黄色や赤色に色づき、この紅葉を求めて人々は、山の散策に出かけます。ただ冬になるとその景色は一変し、葉っぱが散ってしまい、今まで美しかった風景が見れなくなってしまいます。日本人でなければ、この寒々しい景色に落胆するでしょう。
しかし、日本人はそれまで、人々を魅了していた場所が、閑散としている寂しさ、もみじの葉が最後の一枚だけ残っている健気さを、美しいと感じることができる、感性をもっているのです。また、日本の伝統行事や伝統宗教は、見た目の派手さではなく、静寂や精神性を好む傾向があり、また日本の伝統文化は「感性」と「情緒」に支えられています。これも「寂び」を感じさせます。
世の中のものは経年劣化によりよごれたり、欠けたり、さびたりします。ものが劣化していく中で、逆にその変化の美しさを「さび」といいます。(電子辞典より)

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 櫓の声波を打つて腸(はらわた)氷る夜や涙

        
深川 冬夜の感、本によっては、

        
櫓の声や腸氷る夜ハなミだ
        艪声(ロセイ)波をうつて腸氷る夜は涙
        櫓の声にはらわた氷るよやなみだ


 などの句形がある。この句は、全体を漢文調で詠みあげている。「櫓の音」といわず「櫓の声」といったのは、漢詩の「櫓声」を心に置いたものとおもわれる。また「波を打つ」「腸氷る」は、いずれも漢詩的な用語である。
 『武蔵曲』の時期、つまり、延宝八年(1680)冬、門弟の杉風の尽力により、芭蕉は深川の草庵に移った。当初、庵を泊船堂と称した。これはそれまで九年にわたる市中放浪の生活を打ち切り、一念俳諧につながらなくてはならないところに、追い込まれたことを意味した。
 『幻住庵記』(元禄三年作)にいう「ある時は仕官懸命の地をうらや」んだところがふさがれて、「仏籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむ」として、鹿島根本寺の仏頂禅師に参禅したのもこのころであった。しかし、「終(つい)に無能無才にして此の一筋につながる」ほかないことを感じたのは、自己の運命を見据えた詩人としての決意に他ならなかった。
 こうしたところから、芭蕉の新しい歩みが始まってゆく。そしてそれは漢詩の本質的な摂取となり、これを伝統の血脈として自己の中に発見し、新生せしめるという方向をとった。
(公立大学法人山梨大学HPより)


(深川江戸資料館HPより)

 「冬夜の感」は、漢詩の題にならったもので、「櫓の声波を打つて」とは、櫓のぎいぎいときしる音が波の上に響くようす。「櫓」は「艪」に通用し、舟の推進具。「腸氷る」は、腸も氷るような寒々とした思いがする、との意。
 「氷る」が季語で冬。 「深川の草庵は水辺に近いので、寒夜、きしる櫓の音が波音のまにまに枕に近く聞こえてくる。耳を澄ましていると、腸も氷るような凄涼な思いがしてきて、いつしか涙が流れているのであった」

(ウエブブログ季 己より) みちのくのかの川いまは凍靄か     季 己


 

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わび(侘び)てすめ(澄め)月侘斎が奈良茶飯

月を眺めて侘びている(さびしく暮らしている)月侘斎が、奈良茶飯を食べて歌う歌声が、月のように澄みとおれ」という意味。「月侘斎」とは芭蕉自らを指し、茶飯は奈良・和歌山方面で今もよく食べている茶で炊くご飯・お粥のこと。芭蕉の侘びを詠った句。

支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉は、「奈良茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったとある。奈良茶とは、奈良の東大寺などで食する茶粥のことで粥の中に煎った大豆や小豆などを入れた質素な食事のこと。奈良茶歌とは、奈良茶を食いながらわび住まいの中で詠まれた歌という意味とされる。句中の月侘斎は侘び住まいの隠士で、芭蕉自らを指している。

侘ぶと答へむとすれど、問ふ人もなし;とは「古今和歌集」在原行平の歌「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ」から引用している。

(公立大学法人山梨大学HPより)



侘びtとは?

  • 意味 :日本の美意識の1つ・気落ちする、嘆く、寂しく思う、落ちぶれる。
  • 使い方:侘しさ(人里離れた侘しい田舎)、(侘しい住居)

古語「侘び」から転じたもので、本来は「劣った状態や不足すること」「心のままにならない」というのが原義。
中世以降は、肯定的にとらえられるようになり、簡素で閑静な趣を楽しむ境地を、意味するようになった。
「侘び」という言葉が、独特の美意識を表すようになり、頻繁に使われるようになったのは、南北朝時代から、江戸初期。
特に室町時代中期以降に、「茶の湯」という茶を立てて、客人に供する作法が確立し、これを究めていき、大成させ完成させたのが「わび」茶である。
「侘び」とは、質素で簡素な中に生まれる、静寂を美しいと感じる心、簡素な茶室の空間の中で精神を集中させて、楽しむ心が美しいとされた。
空間だけでなく茶碗や、陶器から素材や、形状に至るまで、質素でありふれたように見える物の中にこそ、美しさを見出すのである。
美意識は、茶道の発展とともに、広まっていったと思われる。
茶の湯では「侘」の中に、単に粗末であるというだけでなく、美的に優れたものであることを、求めるようになった。
日本人は古き時代から、散りゆく桜や、落ち葉、苔に覆われた岩など、自然界で生き生きとした自然、情緒あふれるものに、美を感じてきた。

(電子百科事典より)
 


 

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『老の楽』

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執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/12/26 12:29

『老の楽』

 「老の楽」とは榎本其角の俳諧の弟子、二代目市川團十郎栢莚が残した日記である。その中に、「我幼年の頃、始て吉原を見たる時、黒羽二重の三升の紋の単物振袖を着て、右の手を英一蝶にひかれ、左の手を晋其角にひかれて、日本堤を行し事、今に忘れず、この二人は世に名をひびかせたれど、今は亡き人也」 とある。
栢莚が幼い頃というのを五、六才の頃とすると、栢莚は元禄元年生まれであるから、元禄五、六年の頃となる。承応元年(1652)生まれの一蝶は四十一、二才。一蝶より九才年下の其角は三十二、三。芭蕉四十九、五十の頃である。

現代、伝わっている『老の楽』は山東京伝が抄録したもので、肝心の原本は失われてしまって完本を見ることは出来ない。栢莚の幼い頃の思い出話は、その京伝の『老の楽抄』には載っていないが、国学者斎藤彦麿が書いた『神代余波』(かみよのなごり)という本に出ている、京伝が書き洩した『老の楽』の一部を知ることが出来る。『老の楽抄』には其角のことや其角の師である芭蕉のことが記されている。
享保十九年(1734)五月十日の所に、「漸之(せんし)は小野寺幸右衛門、貞佐物語。放水は岡野金右衛門九十郎事、右は貞佐門人の由。子葉は少いくびにて、いも顔也。ばせを(芭蕉)翁はうすいもあり。其角や嵐雪所へいくぞやと云、あいさつしづか成り。しゅしゃう成翁也」
小野寺、岡野共、赤穂義士で子葉は前出の通り大高源吾の俳号。貞佐は其角門人の桑岡貞佐。其角と赤穂義士との交流は深く又、広範囲にわたっていた。義士達の討入りの晩、吉良邸隣の土屋侯の屋敷で俳諧の会があり、其角は嵐雪とともに列席していたという。「大高源吾は猪首で、いも顔だった。芭蕉はうすいもがあった」とある。いもというのは疱瘡(天然痘)の治癒した跡のアバタのこと。(電子百科事典より)
芭蕉庵成立成立前後の状況

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櫂の波・・腸(はらわた)氷る、禅者芭蕉読本㉚ 

天和二年(1682年芭蕉39歳)三月大原千春撰の「武蔵曲(むさしぶり)」が出版された。千春は京都人で、江戸に遊んで同志の吟友と唱和して、諸家の発句を集録して、帰洛してその後に上梓した。
 千春は芭蕉門下ではないが、その巻頭に翁の敬称をもちいて、
 
  梅柳さぞ若衆かな女かな   芭蕉翁 桃青

(梅の花の匂い立つ気品の高さは美少年のようであり、また柳の艶かしさはまさしく女性のようであるとの意味。)
の一句がかかげられていて、芭蕉をたたえている。
当時38、9歳の芭蕉がすでに他門の人から翁とよばれるなど隠閑の生活を楽しむ中に、早くも老いを感じさせるものがあり、29歳で江戸に下って以来すでに十年、俳壇での声望の高さがしのばれている。
 「老の楽」には、芭蕉四十歳前後のころ、六十余りの老人のように見えたという記述がある。
 それは外貌ばかりでなく、「武蔵曲」にあらわれた句には、前年の「東日記」に比べても一入(ひとしお)閑寂哀愁の気が加わって来る。
 

わびてすめ月侘斎が奈良茶歌

芭蕉野分けして盥に雨を聞く夜哉
また、「武蔵曲」には、
   櫂の聲波を打って腸氷る夜や涙
など、生活の外面内面をともに語っている。(人間禅みえ四日市禅会俳句部)


参考文献;電子百科事典、穎原退蔵著「芭蕉」、ウィキぺディア、芭蕉年表

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皆様
おはようございます。中央支部の森田露香です。
本部道場において、第5回合同臘八摂心会が開催されました(1216日結制、23日朝円了)。
参加者総数は91名となり、会員では13の支部・禅会より81名が参加されました。
庶務係より、寄書きと円了後の記念写真を配信させて頂きます。合掌 森田 露香 九拝


 

 

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