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ブログ - 20180901のエントリ

 諸大徳 参禅を要すや、須らく放下着すべし。

箇の何をか放下せん? 箇の四大五蘊を放下し、無量劫来の業識を放下し、自己脚踉下に向かって推し窮め看よ。

これ何の道理ぞと。


三段目は修行というものの進め方の基本を説明しているのです。

修行者よ、参禅が何よりも肝心であるよ!その為には全てのものを捨てなければ成らないよ!と。(参禅を要すや、の「や」は、疑問ではなく強調の助詞)

そして、何を捨てるのか?四大五蘊を捨て、無量劫来の業識を捨て、自分の足元に向かって究め看よ、と。

この看よ!が、着目すべき点であり、「見よ」ではいけないのです。

「看る」とは、相対的に公案を考えるのではなく三昧になって公案と一体になれと云うことです。これ何の道理ぞ?も、考えるのではなくあくまで次に出てくる工夫を示しているのです。

四大というのは地水火風という肉体を構成する要素、五蘊とは五蘊階空の五蘊、色受想行識であり、四大五蘊で人間を指している。

つまり、肉体的精神的働きを一時棚上げにして、自分自身を対象化せず、自分自身の存在の根底を内に向かって探せ、ということなのです。

それは一体どういうものかと。

しかも考えるのではなくて三昧になって究めろ、と。


 
両忘庵釈宗括老師の書画(人間禅蔵)

 功夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし。精神を奮起し、片時も放遅すること莫れ。無理会の処に向かって究め来たり究め去り、究め究めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照らさん。
 

4段目は、修行のやり方工夫の仕方、修行するときの精神の持ち様を示し、このやり方に従えば必ず見性することがでると云っています。
功夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし】と、両忘老師が声を大にして叫ばれているのです。公案の功夫(工夫)は、頭に火が付いたとき思わず何はさておいても急いで消すように徹底して実行するように工夫せよ!と。

そしてあらゆるものに優先して精神を集中し、片時も放置するなと。(これは日常の数息観においても同じで、頭燃を救うがごとくでないと数息観は深まりません。)

【無理会(むりえ)の処に向かって究め来たり究(きわ)め去り、究め究めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照らさん】公案工夫の仕方であってまことにその通りであり、実に的確な表現です。

これが先ほど云ったことですが、相対樹ではなく絶対樹で工夫することを言っているのです。

頭頂葉(いわゆる頭)で考えるのではなく前頭葉を活性にして、すなわち三昧になって精神を奮起して全精神を集中して究め求めるのです。

これが禅の工夫の要点です。

【無理会の処】つまり知性的には理解できないところが公案の工夫の場です。無理会の処に向かって三昧になっていく。

「本来の面目とは何か何か何か・・・・」これを、頭燃を救うが如く急切にやれと。それをずーーっと続けて続けて続けていく。
 

そうすると自然に機に触れて、【即ち心華発明して十方刹を照らさん】となる。心華発明とは、心の華が開くということ、見性するということです。

十方刹とは、あらゆる方向ということです。

つまり、見性がいけて自己の絶対性が分かるということです。

公案【無理会の処】にずーっとずーーっと迫っていけば、必ずそういう時期が来る。

見性すると云うことも今自分はどの程度なのかも考えてはいけない。

あらゆる念慮を捨て去る。

その集中を切らさない。

そこが難しく最も重要なところです。

公案の工夫は公案三昧にひたすら浸るということです。

三昧に浸る時間が必要です。

だから摂心会というものがあって、日常の生活から遮断された時間に身を置くことができる。

参禅の時だけ道場に来てでの修行ばかりでは、禅学は進んでも人間形成は進みません。

摂心会期間中は道場に寝泊まりして就寝前後も三昧に浸る時間を持つことが大切なのです。
 

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亀鑑・きかん(両忘庵釈宗活老師)


         
 両忘老師は、人間禅の創始者である耕雲庵英山老師の師匠であり耕雲庵老師は両忘老師の嗣法者です。

そしてこの亀鑑は、人間禅ができる前の両忘禅協会の会下の者に対して両忘老師が示されたものであり、両忘禅協会の会員はことあるごとにこれを唱えていたようです。

50年前、両忘禅教団から引き続き人間禅の会員になった関西地方のある支部で某老居士が、ある時この亀鑑を支部員に配られ、それ以降 日常の支部行事では常にみんなで唱えておりました。

亀鑑とは、亀は占いの道具で、古代では亀の甲を焼いて出来た割れ目によって吉凶を占い、それを行動の基準にしていたのです。

鑑はかがみ(鏡)に通じ、人の行いの手本のこと。

つまり亀鑑とは、禅の修行の手本であり、ここに示されているとおりに修行せよという両忘老師のお示しであります。



亀卜

 

  諸大徳 此の事 智にも属せず、不智にも属せず、仏に在って増さず、凡夫に在って滅せず、八解六通心地に印し、三身四智体中に円かなり。

心外に向かって求むること勿れ。
 

まず、禅の修行するときの大前提である仏教の真理そのものについて示されています。そして修行の大きな方向を示されています。

冒頭に「諸大徳」といっていますが、これは禅宗に於ける修行者の注意を喚起する呼びかけの言葉です。

次に釈迦の悟りというものは、智でもなければ不智でもない、相対的のものではない、絶対である、と。

「仏に在って増さず、凡夫に在って滅せず」とは、仏には沢山あり、凡夫には少ないというものではない。絶対の真理(本来の面目)は、あらゆる人に平等に備わっている。あらゆる人に等質、等量に、この五尺の肉体に備わっている。

「八解六通心地に印し、三身四智体中に円かなり」(八解とは、涅槃経に書いてあるといわれる八種類の解脱、六通とは、禅定を修めることによって得られるという超人的な力、三身とは法身、報身、応身という仏の三つの身体、四智とは、仏の四つの智慧、大円境智、平等性智、妙観察智、成所作智)、八解六通だとか三身四智は、絶対の真理と解すればよい。

修行して絶対の真理を求めるときに、外に求めてはいけない。

自分自身の中に求めなさいといっているのです。

初心者のよくやる間違いですが、仏性(本来面目)を自分の外に求めるのを戒めた指針です。

初則の公案を工夫するときに「外に求めるな」といってもなかなか分からない。これは、対象(本来面目)を向こうに置いて考えるなということであり、外に求めないで内に求めるということは、相対樹で求めるのではなく絶対樹に渡って絶対樹の中に求めよと云うことです。

すなわち相対樹では言葉でもって思考して答えを探して、詰まるところ「本来の面目」を言葉でもって説明してしまうことになるのです。

本来の面目は説明できないものであり、従って室内では、本来の面目そのものを答えとして出さなければならない。

言い換えると相対樹は考える場であり絶対樹は考えない場であり、この入門し最初の公案を授けられた初心者が誰でも一度は填まり込むのが相対樹で見解を出そうとする状態です。

インテリゲンチャほど公案を考えるということから脱却できない。

公案を自分と離して対象化し相対的に客観的に考えてしまう。

こんな状況にいる間は、真正の見解には絶対に出くわすことはありません。あらゆる念慮を捨てて、全ての言葉を捨てて、公案をただ心中で唱え続ければ、自ずと公案三昧になり、公案と自分とが不二一如になってくるのです。

一切の念慮が動かない、考えると云う頭頂葉が静止し、前頭葉が活性になった状態を三昧と云い、これが絶対樹の中で工夫すると云うことです。

初心のうちは公案を工夫するとき、公案を考えてしまいなかなか三昧になれないから、数息観を100ぐらいやってから公案の工夫に移るというのも良いでしょう。 
 

  人心得難く、仏法聞き難し。此の身 今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってか此の身を度せん。
 

自分は人と生まれてきたが、このこと事態、奇跡と云えば奇跡なのです。幸い人として生まれてきたからこそ仏縁に恵まれてこの擇木道場にまでたどり着くことができた。折角の奇跡的な縁を大切にして、人間ならではの仏法の示す真理をしっかり生きている間に掴みたいものである。

真理を求めて禅の修行するのは今現在のこの人生しかない。

今この人生で求めなければ何時もとめるのか。

自分自身の根本的な問題を解決するのは、死んでからでは遅い。

人生は短いから一刻の猶予もない。

年齢に関係ない。今やろうと思った時が最も重要なんです。

そしてそれを継続したときに後ろに道ができている。
 

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