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ブログ - 20180716のエントリ

心頭を滅却すれば火もまた自ら涼し、甲斐の恵林寺、快川和尚辞世のいきさつ


 

快川 紹喜(かいせん じょうき)禅師は、文亀2年(1502年)-天正1043日(15824月25日)戦国時代から安土桃山時代の臨済宗妙心寺派の僧である。

諱(いみな)は紹喜(じょうき)。字(あざな)は快川。

俗姓は土岐氏、美濃国の出身という、美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職となる。美濃国主、斎藤義龍との間で「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教上の混乱が起こり、一旦美濃を離れるが、義龍の死去に伴い帰国。

永禄7年(1564年)、甲斐国武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺。武田氏と美濃斎藤氏との外交僧の役割なども務める。

甲斐では信玄に機山の号を授けた。

『甲陽軍鑑』によると、永禄8年(1565年)年10月初旬、信玄の嫡男・武田義信が謀反を企てるが事前に察知され、義信は甲府・東光寺に幽閉されると、長禅寺住職・春國光新、東光寺住職・藍田恵青とともに信玄・義信間の調停を試みるが、永禄10年(1567年)1019日に義信は東光寺において自害。

元亀4年(1573)412日、信玄が「西上作戦」の途中、信濃国伊那郡駒場において死去する

信玄の死は秘匿され、家督は四男の武田勝頼が継承した。

天正4年(1576年)4月、快川禅師を大導師に恵林寺において勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた(『天正玄公仏事法語』)。

天正(1581年)、正親町天皇より大通智勝国師の号を賜る

天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡する。これにより武田領内が混乱すると、恵林寺住職快川和尚は信長に敵対した佐々木次郎(六角義定)、三井寺の上福院、足利義昭の家臣の大和淡路守らを恵林寺に匿い、織田信忠の引渡し要求を拒否。その後、恵林寺は織田氏による焼討ちにあい、快川和尚は一山の僧とともに焼死した。
 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Erinji_main_gate.JPG/250px-Erinji_main_gate.JPG

恵林寺三門。右の柱に「安禅不必須山水」、左の柱に「滅却心頭火自涼」の偈が記されている。

 

弟子に伊達政宗の教育の師として、「滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に」という言葉でも知られる、虎哉宗乙がいる。

天正10年(1582年)に恵林寺において焼死したとき、「安禅不必須山水 心頭滅却火自涼」(安禅必ずしも山水を須(もち)ひず 心頭滅却せば火も自づと涼し)の辞世の句を残したといわれている。この言葉は、碧巖録、円悟禅師の評唱に引かれている。元来、晩唐の詩人杜苞鶴(846 - 904年(907年?))の詩、「夏日題悟空上人院」の転結句が出処といわれている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山本勘助(菅助)像,

山本勘助;東海地方(東三河)の出身、諸方遍歴の後、武田信玄の軍師となる、恵林寺で信玄とともに出家入道、第四次川中島の合戦で、妻女山に軍を敷いた上杉軍の急襲を受け武田軍の多数の将兵とともに討ち死にした。、

(みえ四日市禅会IT部)

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