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ブログ - 20180710のエントリ


三河国(豊橋・豊川)の禅修行者、道鬼居士(恵林寺で出家入道?)・山本勘助


近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸期の段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことが確認された。

ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)にある学者が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」と指摘している。

武田家重臣の高坂弾正著、『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が「甲州法度之次第」を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、生年は明応2年(1493年)となる.
 

また、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。五ヶ条之事」によると、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。

「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、信玄に機山の号を与えた快川詔喜和尚の恵林寺で同時期に出家し、川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには多少矛盾の存在が指摘されている。


山本晴幸生誕の地(豊橋市・加茂町)。

江戸前期「甲陽軍鑑」などには三河国宝飯郡牛窪(豊川市牛久保町)の出とある。
江戸時代後期成立の「甲斐国志」によれば駿河国富士宮郡山本(静岡県富士宮市山)

 

生年には、文亀元年(1501年)説もある。

『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年(1561年)9月10日の川中島の戦いで討死したとされる。

近世には武田二十四将に含められ、五名臣の一人にも数えられて、伝説的軍師としての人物像が一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、実在について長年疑問視されていた。

近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている

武田家の菩提寺である甲州市塩山小屋敷の恵林寺近在の塩山三日市場には不動明王像が祀られた堂があり、この像は「勘助不動(さん)」と呼称されいて、塩山小屋敷・塩山三日市場の両地区において管理され、像高は約40センチメートル(台座下から後背頂部まで58センチメートル)で、堂内正面の仏壇に安置されている

「勘助不動」は不動明王特有の「半眼」であるが、『甲陽軍鑑』における山本勘助と同様に右目が塞がれている。1890年(明治231月)の恵林寺住職・圓應和尚が記した由緒書『勘助不動尊再建有志名簿』によれば、武田氏の滅亡後に信心深い男が本像を刻み、毎年128日に祭礼が行われてきたと伝えている。


山本勘助(松本楓湖作、恵林寺蔵)生年;明応2年(1493)、没年;永禄4年9月10日(1561年10月18日)
改名;山本源助、勘助、山本勘助、晴幸、道安 号;道鬼斎
別名;菅介、勘助 戒名;鉄巖道ー禅定門(禅宗)、天徳院武山道鬼居士
墓所;長野市、長谷寺(豊川市) 主君;牢人後 武田信玄
氏族;山本氏、大林氏 父;山本貞幸 母;大林入道の娘、安
兄弟;吉野貞継、石松、光幸、晴幸、鶴(桑名城の室)、貞重
子;山本菅助(二代)、下村安笑(三男)

古戦場川中島、千曲川堤防沿い(松代側)の山本勘助終焉之地に立つ墓碑、碑には「簡単な経歴とともに,出身」については、ただ東海地方の出とだけ刻字されている。明治期に描かれた月岡芳年の「勘助討ち死の図」は凄まじい)(堤防下には信濃禅会坐禅会場、三和建設社屋が建つ)
 
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