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ブログ - 201807のエントリ

一日一炷香の行取、坐禅の効用⑩

 生き馬の目を抜く情報過多な現代において、人間の心の自然を保持するに無策では大変危険です。
 意識的な施策がなんとしても不可欠になるわけですが、その施策の骨子は、ときどき頭頂連合野(人間の大脳で、デジタルコンピユーターに該当する部署)をご破算にしてやるーゼロに戻すーリセットしてやることです。
それには坐禅して数息観を修することがもっともシンプルで、しかも効果は絶大です。
 数息観(観法)は3000年以前から現代に伝わるもっとも東洋的な観法です。
 坐禅を組んで数息観を継続的に実践することにより、だんだん三昧が深くなります。
 数息、つまり自然の呼吸を数えるというリズム的単純作業は、最新脳科学の実証実験により頭頂葉をサイレントにし、感性を司る前頭葉を活性にするとしています。
 


 数息観を継続して実践していると、三昧が少しずつ身についてきます。
 この数息観の継続を一日一炷香(いちにちいっちゅうー「線香一本灯る間坐る」)をきちんと行取(ぎょうしゅ)していると、精神的ストレスを後に残さないばかりでなく、精神的疲れを一切蓄積しない、さらに済んだことに引きずられることもなく、未だ先のことにくよくよ気に病むようなこともなく、常に平常心を保って、「今」をしっかり安定して生きることができるというものです。

(丸川雄浄著「坐禅の効用」より)
 
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 常に平常心を保って事に当たれる坐禅の効果,

坐禅の効用⑨
 情報過多社会、時間に急かされる現代社会では、ともすれば周りに引きずられて、自分を見失いがちです。
 三昧が身についてくると、どんなに忙しくても、慌てるということはなくなり、しっかり自分を整えることが出来ます。
 慌てるということは、呼吸が上がって上呼吸になっているのです。
 書道においても剣道においても呼吸を下げることを重視するように、稽古の際にも注意を喚起しています。
 日頃から坐禅を継続することによって三昧が身についてくるようになると、常に正しい呼吸ができるようになり、すべて物事に冷静に対処でき、優先順位どおりに「今」に全力投球することができるようになります。
 現代は、人類が経験したことが無い様な情報過多、精神的ストレスの多い時代です。
 精神的ストレスの蓄積により、自立神経失調症やうつ病に罹りやすい時代です。
 ほとんどの人が程度の差はあれ、こういう状態に陥っているといっても過言ではないかと思います。
 こうなるとその人の活性度は著しく落ちるばかりでなく、その組織、その会社は、生き生きした仕事ができなくなります。
 脱俗出家しない一般社会人にとって、ひとつのことだけに専一に取り組めばよいということはあり得ません。
 常に多重な価値、課題の処理に追われて生活しています。
 これが精神的ストレスを引き起こす源泉になっています。
       

 
 特に精神的ストレスが未だリリース(開放)できていない状態に、次の新しいストレスが重なり、それがどんどん積層化してくると、人間の心はすぐには正常な状態には復帰できなくなり、心の病になってしまいます。
 まじめな人ほど責任感が強く、なにか不祥事でもあれば責任を背負い込んで自分を責めることになってしまう。
 したがい結果を気にしすぎるあまり、すべてに臆病になりしり込みしがちになってしまう。
まじめな現代人ほどうつ病や統合失調症などへだんだん重症化し病膏肓(こうこう)に入り、自死予備軍にもなってしまいます。
 自然の中で自然と一体になって生活していた時代は、人の心も自然な状態を安定して保つことが容易であったと思われますが、現代は人が自然で平静な心を
常に確保することが至難の時代です。
 すなわち、本来の人間の自然な平静な状態は各人が意識して確保しなければならない時代といえるでしょう。
 
 
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スカッと「今生きる」、坐禅の効用⑧
 
 坐禅を組んで数息観をしっかりやるということに二つの留意点があります。
 一つには、この実践行に熱心に気合を入れて取り組むことです。

二つ目には、これに取り組む時間と頻度ですが、線香一本灯(とも)るのが大体45分ですが、先輩方からの口伝では、少なくとも半炷香(30分強)以上、毎日、365日、5年、10年、20年30年・・・・死ぬまで継続することであると。

馬鹿正直に続けられるかどうかが、その人の人間としての資質にかかわる器の大きさになります。

この「二念を継がず」が数息観でできさえすれば、それだけでも大変な人間力増大になります。

それは呼吸を一から十まで数える前の約1分間だけの「二念を継がず」でよいのです。

が、数息観を試みた方はお解かりでしょうが、このたった十まで数える一分間ほどの二念を継がない数息が大変難しいのです。

毎日30分以上を365日、10年間熱心に数息観の修練(一日一炷香)

を継続して三昧力を磨いたひとでも、百人のうち数人くらいしか到達できない難事です。

しかしこれができるようになるとかなりな人間力が付くことになり、日常生活において様々な素晴らしい効果を発揮できるようになります。


 

一分間の「二念を継がず」の三昧力が身に着いてくると、どんな喧騒な環境の中でも気を散らさないで、今やっていることに集中できるようになります。

どんな物音や人の声が聞こえてこようが、目の前の今の手元が疎かになるということはなくなります。

また、済んでしまったミスをいつまでも引きずったり、まだこれからのことに気を煩わせたりすることはなくなり、スカッと「今に生きる」ことができるようになります。

どんな環境条件の中においても、今の目前のことに集中し、他に念慮が動かない。

こうなると学習効果も仕事力も上がること請け合いです。

単に仕事ができるというだけでなく、精神的に安定かつ意欲的状態に常に自分を整えておくことができるのです。

これは才能に関係なく、老若男女、貴賤を問わず、人種を問わず、実践し、自分の行として継続するかどうかです。

ローマは一日にしてならず。

大人物も一日一炷香(すくなくとも30分以上の数息観の実践)を継続したかしないかにかかっています。

(丸川雄浄著「坐禅の効用」より)


 
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他のことに気を散らさないで今に集中できる効果、坐禅の効用⑦

 受験生でも社会人でも、勉強なり仕事なりに、100パーセント集中している時期は、それにかかわっている時間のうち、何割あるでしょうか?
 今やっていることに没頭しいぇ、他のことチラッとも気を散らさない状態をキープすることはなかなかむつかしいものです。

チラチラ他のことを考えながら仕事している状態では、本気で取り組んでいるとは言えず、能力を100パーセントだしているとは到底言えないでしょう。 

こうなると勉強の成績や仕事の出来不出来は、頭の良しあしでも能力のあるなしでもなく、集中力というメンタルな面での差が大きく効いてくるといっても過言ではないでしょう。

しかも突っ込んでいえば、集中しているという部分においても、レベルの高い低いが大きいのです。

しかしここでは「気を散らさない」レベルの比較的低い集中度の話ということにして以下お話ししましょう。


 

例えば、ホームページ用のブログを書いているとき、遠くで消防自動車のサイレンが鳴りだした。

それが耳に入り、こかで火災が起きたんだなあ、と思う。

そのサイレンからの連想で、子供の頃に、弟が消防自動車好きでサイレンが鳴るといつも駆け出してしまっていたことを思い出す。

そして次に、一昨日その弟から倉敷の「群すずめ」という銘菓を貰ったことを思い出し、急に腹が減っていることに気付き、「群すずめ」を食べようと冷蔵庫に取りに行く、、、、、、。

こういう消防自動車のサイレンの類いの「気を散らす」材料は、日常において事欠きません。

これを坐禅では「二年を継ぐ」と言います。

「うーうーうー」の音波を消防自動車と認識するのが一念です。

それから「弟」が二念で、銘菓「群すずめ」が三念です。

坐禅では通常、数息観(法)を行って、集中力、三昧力を養います。

この数息(呼吸を数えること)だけに意識を集中して、数息以外の念慮はすべて切ることを徹底して追求するのです。

これが、「二念を継がず」の訓練です。

坐禅を組んで「数息観」を始めたなら、これをまず、しっかりやることが大切です。

(丸川雄浄著「坐禅の効用より)

 

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枯枝に烏のとまりけり秋の暮、禅者芭蕉読本㉗

 延宝九年9月29日、天和元年(1681年)桃青38歳。

この年の6月、池西言水編の「東日記」が刊行された。この書は才丸の序に

、「これより先三度句帳を顕はし、三度風体をかへて三たび古し」と
言水が閑語したことを述べているように、当時の俳壇における革新的機運を
反映したもので、桃青発句15句入集しているが、そのうち3句。
   枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
   いづく時雨傘を手にさげて帰る僧
   藻にすだく白魚やとらば消えぬべき
など、従来の縁語掛詞の技巧や観念的な比喩の遊戯に満ちた談林派の作風と
かなり異なる傾向がみられる。
後世、枯枝に烏の句の吟は真に文芸的で、芭蕉の俳号ではじめて、千春撰
「武蔵曲(ブリ)」に発句6句入集するのは、翌年の3月であるが、この句こそ蕉風開発の第一声との評が一般である。
しかし、枯枝にとまった烏を自然の風景として眺めるより、秋の暮れの道具立てとして見ることに、興味の主体がおかれていて、いまだ、素直な客観の句としては今だしである。
烏のとまりたるや」は、後に「烏のとまりけり」と改めている。
寒烏枯木の閑寂の境をそのままとらえて、そこに理知的解釈の余地を介在させていない、
更に次の句、いづく、、、、(晩方)帰る僧、に時雨を憶う枯淡の情緒趣向、(手に)とらば消えゆきそうな白魚の繊細な{あはれ}などにしても、俳諧の文芸性に対するそれまでの考え方から見て驚くべき変化であった。
そこには、従来の理知的な「をかしみ」の要素がみられない。

又、「東日記」それ自体が新しい風体(ふうてい)を求めていた。
その中の才丸の句「笹折りて白魚のたえ々青し」、も、その詩的美しさは新鮮でさえある。
しかし、「東日記」それ自体の全体的な志向は、いまだ、理知を基調にした、一線上にあった。
才丸のこの句、「青し」と、むしろ白魚に対して、逆説的に形容叙述したのは「その中に、従来の談林派が求めた、「をかしみ」をそこに期待したかのようでる。
「東日記」に入集した、芭蕉15句の大部分がいまだ談林的な風を離れてはいないが、その中の二三句であっても、閑寂、枯淡、繊細などの美意識がそのまま俳諧の内容として取り入れられたのは、時代の推移のほかに芭蕉の個人的な特質や厳しい自省の念に元ずく精神生活、つまり、この時期より仏頂禅師への参禅が開始された事が大いに考えられるところである。
 また、それは芸道に対する純粋な気持ちとして「此の一筋に繋がる」と表現すべきものであった。


深川芭蕉庵跡地に建つ神明神社に置かれているこの石の蛙は、「芭蕉遺愛の石の蛙]」といわれるもので大正69月の台風の折の高潮の後、常盤一丁目から出土したもので、同年1月に東京府はこの地を「芭蕉翁古池の跡」と指定.した。
.

池西言水(1650~1772)大和国(奈良)で大年寄りを務めた家系に生まれる、16歳で法体して俳諧に専念。江戸に出て、大名俳人内藤風虎のサロンで頭角を現す。天和2年京都に移り天和4年まで西国、九州、
出羽、佐渡などへ3度の行脚を行う。代表句「菜の花や淀も桂も忘れ水」。
才丸―佐々木才麿 大和宇陀郡生まれ。江戸在住、西鶴門弟。江戸前期から中期の俳人。没83.
 
(みえ四日市禅会俳句部)

 

 

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人間禅東海の皆様へ

暑中お見舞い申し上げます。
 

さて、85日(日)~12日(日)に岐阜県関市洞戸大野、岐阜洞戸坐禅道場においてオール東海(人間禅名古屋支部・岐阜禅会・三重四日市禅会・豊橋禅会)摂心会(坐禅会)が厳修されます。

大変暑い中での摂心会(坐禅会)となりますが、しっかりとした作務三昧・数息観三昧・参禅三昧を行じたいと思います。初心のかた、会員のかた多数ご参加されますようご案内申し上げます。

尚、事前の準備作務につきましては、729()8時から11まで行います。各役位の長の方を中心にしっかりとした準備(段取り)を致しましょう。
 

日時 平成30年85日(日)1930分開会・道号授与式後に結制茶礼~12日(日)正午円了です。 
 

場所 岐阜県関市洞戸大野、人間禅岐阜洞戸(旧東海)坐禅道場

師家  人間禅総裁葆光庵丸川春潭老師

提唱  無門関 
 

放参日  89日(木)

特別講演会    810()18:3020:00
 

               「がんと座禅」

                                        

講師;船戸崇史船戸クリニック医院長

講後「がんと禅対談」 ※詳しくはHPの案内・日課表・講演会詳細をご参照ください。

初心の方大歓迎!!

                                                                                   

   人間禅名古屋支部長 龍光庵蓑輪清稟 
 

人間禅岐阜洞戸(旧東海)坐禅道場長・岐阜禅会長
 

             渡辺玉蘭


 
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西郷どんと禅

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ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/7/23 20:02

日本文化研修道場
西郷どんと禅 平成 30 年 7 月 28 日(土)
         14:30 ~ 16:15      参加費 2,000 円



 講師>木村幸比古 きむら・さちひこ 
京都霊山歴史館副館長・歴史家(昭和23年生まれ京都出身)
國學院大學卒業。近世思想史、幕末史。維新史の研究と博物館活動で 文部大臣表彰。京都市教育功労者表彰。高知県観光特使。NHK大河 ドラマ「徳川慶喜」「新選組!」「龍馬伝」「花燃ゆ」「西郷どん」 企画展示委員。 著書「土方歳三」(学研M文庫)「新選組京をゆく」「新選組全史」 (講談社メチェ)「沖田総司」「龍馬暗殺の謎」「(PHP新書) 「幕末志士の手紙」(教育評論社)「知識ゼロからの西郷隆盛入門」 (幻冬舎)ほか。NHK歴史番組「知恵泉」「ヒストリア」などゲス ト出演多数。

 


 
治維新150年の節目、NHK大河ドラマは『西郷どん』が話題になっています。 主人公、西郷隆盛は木戸孝允、大久保利通とともに維新三傑に挙げられる英雄です が、その波乱な人生から「幕末の功臣にして明治の賊臣」との評価もあります。西郷 隆盛とはどんな人物だったのか。禅との関係はどうだったのか。幕末史に詳しく、西 郷隆盛についての本も出されている、京都霊山歴史館副館長歴史家の木村幸比古先 生にお話しを伺い、フォーラムを開催します。以下は内容の一部です。  無参禅師   西郷と大久保は誓光寺の無参禅師のもとに早朝から参禅した。現在は座禅石公園に西郷が座禅した石が残さ れている。(即今当処自己志を鍛えた)無参は城下の南林寺、島津家の菩提寺福昌寺や誓光寺の住 職をつとめた。藩主斉彬は西郷の存在を江戸城で土佐の山内容堂から「なかなか家来という西郷がいる」 と聞かされた。ドラマでは2回目、無参が斉彬に西郷の存在を知らせた内容であった。  勝海舟   19歳のころ剣術の師範島田虎之助の勧めで、向島の弘福寺で参禅した。「剣術の修行には座禅は一番よか った。胆力を養うには最高、雑念が入ると勝負に勝てない」「剣術と禅学の二道より得来(えき)たった たまものであった」(氷川清話)勝と西郷の英断で江戸百万都市を焼かずにすみ、江戸無血開城を実現。
 
【日    時】 平成30年7月28日(土)   午後 200        230415  フォーラム) 午後 430600   禅(老師と面談の時間もあります) 【費    用】 ,000円 【場    所】 人間禅擇木道場 日暮里駅南口徒歩3分 東京都台東区谷中7-10-10 TEL0338237647 FAX: 0338237647 【連絡先】 ホームページ zenfrontier.org からお申し込み願います。お気軽にご質問くださいませ。 人間禅東京支部長 松井龍泉 携帯 080-5412-1710 PCアドレス MXJ01225@nifty.com  

 
 
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宗演禅師菜根譚講話(二十六) 

飽後(ほうご)に味を思えば則(すなわ)ち濃淡の境都(すべ)て消え、色後(しきご)に淫(いん)を思えば、則(すなわ)ち男女の見(けん)盡(ことごと)く絶(た)ゆ。

故(ゆえ)に人常に事後の悔悟(かいご)を以(もっ)て臨事(りんじ)の痴迷(ちめい)を破らば、則ち性(せい)定(さだ)まりて動くこと正しからざるなし。

腹いっぱい食物を食ったあとで、味わいのことを思ってみると、濃(うま)いの淡(まず)いのという区別はすっかり消えてしまって、格別(かくべつ)、何が食べたいとも思わない。

また、房事(ぼうじ)を終えた後に、淫欲(いんよく)のことを思ったところで、これ、また、男女の情交に関する観念、想いは、悉くなくなってしまっている。


 

この事は、単に色と食の二つに止(とど)まらず、

すべての欲情が斯(か)くの通りである。

 快楽を貪(むさぼ)った後では興味は真(まこよ)に索然(さくぜん)たるものである。

故に、人は、常にその事の終わった後に生じて来る後悔の念を前もって心の上に置いて、まさにその事に着手せんと欲する時の、愚痴(ぐち)の迷いをぶち破ったなら、本心は端然(たんぜん)として居って動着(どうちゃく)せぬから、動作(どうさ)をすることは何事に限らず、正しからずということがないというものである。
 
 

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廬山煙雨浙江潮,
  未到千般恨不消。
  到得還來無別事,
  廬山煙雨浙江潮。

  


廬山の煙雨  浙江の潮,
未だ到らざれば 千般  恨 消えず。
到り得 還り來れば  別事 無し,
廬山の煙雨  浙江の潮。




蘇軾(蘇東坡居士)

銭塘江逆流
銭塘江逆流は杭州から東北の方向へ45キロの塩官鎮に位置しています。銭塘江は長さ610キロで、中国第四番目の川です。源は安徽省の休寧市にある標高1144メートルの仙霞嶺山脈です。月と太陽の引力、銭塘江の川の形などとも関係で、銭塘江逆流の形成されています。世界中に逆流を見える川がただ2本しかありません、一つは銭塘江で、もう一つは南アメリカにあるブラジルのアマゾン川です。銭塘江の潮は「海寧の潮」あるいは「浙江の潮」ともいわれます、毎年の中秋の頃に潮が満ちてくるときに、満ち潮を見に来る人々は昼も夜も絶えありません。銭塘江には潮を見る所は三カ所あります。旧暦の七月から八月までの秋分の前後は潮の落差が大きく、とても壮大な景観です。
 
※蘇軾:北宋の詩人。北宋第一の文化人。政治家。字は子瞻。号は東坡。現・四川省眉山の人。景祐三年(1036年)~建中靖國元年(1101年)。三蘇の一で、(父:)蘇洵の老蘇、(弟:)蘇轍の小蘇に対して、大蘇といわれる。

※廬山煙雨:廬山のきりさめ。 *第一句(起句)と第四句(結句)とが同一にできるのは、近体詩では、それの平仄の配列が同じ(
○○●●●○○(韻))ため。このような作品例は極めて少ない。なお、この作品には禅の深い意味が蔵されていると謂われるが、ここでは、通常の詩作として解釈する。「廬山と物の見方」については、蘇軾に『題西林壁』「橫看成嶺側成峰,遠近高低各不同。不識廬山真面目,只縁身在此山中。」がある。
 ・廬山:〔ろざん〕江西省の九江市の南にある山塊(『中国第百科全書 中国地理』、『中国歴史地図集』)。陶潛は南山と詠ったこともある。
陶淵明の隠棲した近くにある山。
 ・煙雨:煙るように降る雨。きりさめ。
晩唐・杜牧の『江南春絶句』に「千里鶯啼綠映紅,水村山郭酒旗風。南朝四百八十寺,多少樓臺烟雨。」とある。

※廬山煙雨浙江潮:廬山のきりさめと、浙江の銭塘江の潮の遡上(とは天下の奇観である)。

 *「廬山煙雨浙江潮」の句の読み下しで、「廬山は煙雨 浙江は潮」と読むのを見るが、日本古典の『枕草子』「春はあけぼの…夏は夜」のような日本語古語の係助詞(ある事柄を取り立てて強調し、他と区別しつつ判然と提示意を表す)の「…は」とするのは適切か。このような句の構成の場合、普通には「廬山の煙雨  浙江の潮」と、格助詞の「の」を入れて読み下す。
漢語で謂えば「廬山(者/是)煙雨 浙江(者/是)潮」なのか、「廬山(之)煙雨 浙江(之)潮」なのか。ここは、「廬山(之)煙雨 浙江(之)潮」で、「廬山の煙雨  浙江の潮」と読み下すのが通常では。 ・浙江潮:中秋の明月の頃、浙江省の銭塘江を潮が遡上することを謂う。
中唐・白居易の『憶江南』二に「江南憶,最憶是杭州。山寺月中尋桂子,郡亭枕上看潮頭。何日更重游。」とあり、中唐・劉禹錫の『浪淘沙』に「八月聲吼地來,頭高數丈觸山迴。須臾卻入海門去,卷起沙堆似雪堆。」とあり、清末~・蘇曼殊は『本事詩』で「春雨樓頭尺八簫,何時歸看浙江潮。芒鞋破鉢無人識,踏過櫻花第幾橋。」と使う。
この外、秋瑾も屡々詠う。

※未到千般恨不消:まだ行っていない時は、いろいろと心に思い悔やむことが消えない。

 ・未到:まだ行っていない。 
・千般:〔せんぱん〕いろいろ。種々。さまざま。千万(せんばん)。 
・恨不消:心に悔やむことが消えない。
 ・恨:心に残り、(自分に対しての)うらみの極めて深いこと。残念がる。また、後悔する。ここは、前者の意。

※到得還來無別事:(しかしながら)帰って来てみれば、どうって事は無く。

 ・到得:行き得る。行くことができる。
 ・還來:戻ってくる。帰ってくる。 ・還:〔くゎん〕帰る。(元の状態に)戻る。帰る。
 ・別無事:別にどうって事は無い。 

※廬山煙雨浙江潮:廬山のきりさめはきりさめで、浙江の銭塘江の潮の遡上は、潮の遡上(に過ぎない)。

(中国HPより)
 
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夏日題悟空上人院  
     杜荀鶴
三伏閉門披一衲,
兼無松竹蔭房廊。
安禪不必須山水,
滅得心中火自涼。

三伏(さんぷく) 門を閉ざして  一衲(なふ)を 披(はお)り,
(くは)へて 松竹の  房廊(ばうらう)を 蔭(おほ)ふ 無し。

安禪 必ずしも  山水を 須
(もち)ゐずして,

心中に 滅し得て  火 自
(おのづか)ら涼し。 


※杜荀鶴:晩唐の詩人。杜牧の末子。大順二年(891年・昭宗)に進士に合格する。字は彦之。九華山人と号す。安徽省池州の人。
846(會昌六年)~904年(天祐元年)。

※夏日題悟空上人院:夏の日に悟空上人の寺で詩を作る。 ・夏日:夏の日。 ・題:詩を作る。 ・悟空上人:僧侶の名。
 ・院:てら。僧侶や道士の住むところ。

※三伏閉門披一衲:酷暑の候に門を閉ざして、衣を一枚はおり。 ・三伏:猛暑の候。酷暑の頃。陰陽五行説に基づき、①夏至後の第三庚(かのえ)を「初伏」、②第四の庚を「中伏」、③立秋後初めての庚を「末伏」の三つの伏。その「初伏」「中伏」「末伏」の「-伏」の総称。酷暑の間。太陽暦で七月中旬から八月上旬にかけてになる。

 ・閉門:門を閉ざす。 ・披:〔ひ〕はおる。また、ひろげる。ここは、前者の意。 ・衲:〔なふ〕僧衣。ころも。
※兼無松竹蔭房廊:くわえて、松や竹がしげって建物を覆うということも、ない。 ・兼:〔けん〕あわせて。くわえて。兼ねて。 
・松竹:松と竹。冬の寒さに耐えて緑を保つ植物。 ・蔭:〔いん〕おおう。かばう。かざす。しげる。動詞。 
・房廊:〔ばうらう〕小さな建物の廊下。

※安禪不必須山水:坐禅して三昧に入るには、山水のある景色、環境を用いることを要しない。 
「安禪不必+須山水,滅得心中+火自涼」となるが、意味から「安禪不必須+山水,滅得心中火+自涼」としたい。

 ・安禪:〔あんぜん〕坐禅して三昧に入ること。

盛唐・王維の『過香積寺』に「不知香積寺,數里入雲峰。古木無人逕,深山何處鐘。泉聲咽危石,日色冷青松。薄暮空潭曲,安禪制毒龍。」とある。
 ・不必:…するに及ばない。…を要しない。いらない。必要としない。 ・須:もちいる。 ・山水:山と水。山と水とのある景色、環境。

※滅得心中火自涼:心中の火を消した結果は、心外の火も自ずと涼しいものである。
 ・滅得:(…の火を)消した結果。消した結果。ほろぼした結果。
 ・心中:心の中。 
・自涼:「亦涼」ともする。その形で『碧巖録』第四十三則の円悟和尚の評唱に引用されている。
「滅却心頭火亦涼」(心頭を滅却すれば火も亦涼し)。

中国HPより



 
 

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