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ブログ - 20180605のエントリ

深川芭蕉庵八百屋お七の江戸大火で焼失禅者芭蕉読本㉕
 

天和二年(1682年)12月28日、芭蕉39歳、江戸の大火で芭蕉庵が消失し、甲斐国谷村高山傳右衛門宅に翌年5月まで寄留する。

翌年、江戸大火にかかわり、八百屋お七処刑される、享年16歳と年表には掲載。

天和三年6月20日、芭蕉40歳、母(百地―桃地氏の娘)死去。享年不詳。法名、梅月妙松信女。

9月、山口素堂、「芭蕉庵再建勧化簿」文を書き、芭蕉庵再建の募金開始。

同年冬、友人知己の喜捨により、新築された芭蕉庵に移る。

天和四年(1684年)1月、芭蕉41歳、門人千里((粕谷甚四郎)を浅草に訪ねる。「海苔汁の手際見せけり浅黄椀」

2月、年号を貞享に改元。

貞享元年(1684年)8月中旬、41歳の芭蕉は門人千里を伴い「野ざらし紀行」に出発。

東海道を西に向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張を廻った。

再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月であった。

美濃国大垣の木因に招かれて出発したものであったが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。

この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した

紀行の名は、出発の際に詠まれたざらしを心に風のしむ身かな」
野ざらし紀行の一文。
腰間に寸鉄をおびず、襟(えり)に一嚢(いちのう)を懸けて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵(ちり)あり。俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて神前に入る事をゆるされず。  
 刀は差していない。数珠を持ち僧の格好はしているが俗世間の塵(ちり)にまみれている。 世俗に生きてはいるが髪はない。僧形(そうぎょう)にして僧にあらず、士農工商の身分からは自由だが、格好だけはなぜか僧。しかし、芭蕉のこのような僧形は「野ざらし紀行」以降のこと。「僧にもあらず俗にもあらず」(鹿島紀行)、「
僧に似て塵(ちり)あり。俗に似て髪なし」(野ざらし紀行)と自らいう。

芭蕉は聖にあらず、俗にあらず一介の旅の俳諧師であったのか、後年には仏頂禅師の法を受け継いだとの禅宗妙心寺派の法系に関する文書も残されている。


大津、義仲寺の僧形芭蕉像、杉山杉風作,  芭蕉が従事した水道工事現場付近

(みえ四日市禅会俳句部)
参考資料、竹人「全伝」、竹二房「芭蕉翁正伝」、穎原退蔵「芭蕉」、、「芭蕉総合年表」、フリー百科事典
関口芭蕉庵HP

 

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深川芭蕉庵(二)臨川庵で参禅、禅者芭蕉読本㉔
 
鹿島根本寺の住職であった仏頂和尚は深川臨川庵に住して、足掛け9年に及ぶ鹿島神宮との訴訟を闘っていた。
芭蕉と仏頂和尚の出会いは定かではないが、芭蕉庵と臨川庵(後の臨川寺)は小名木川を挟んですぐ近くにあり、芭蕉は仏頂禅師に参禅しながら、和尚と俳諧や和歌問答のようなやり取りや、和尚からは漢詩、漢学などを学んでいたようで、後に「奥の細道」で、仏頂和尚の歌も紹介している。

「縦横の五尺に足らぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」、(厳しい)修行の身には草の庵さえ必要ない、という。

仏頂和尚は鹿島の根本寺が徳川家康から神社の100石の所領をいただいていたが、それが神社に戻されていることを訴えて出て、九年後勝訴すると、潔く住職を辞して隠居し、以後行脚の生活に戻ったりしているのを見て、和尚の粘り強い交渉態度や引き際の潔さに感銘を受けたようで、後に深川の庵を売り払い、「一所不住」「無住無庵」の生活に徹することになる。



鹿島・根本寺

 
一方、深川隠棲の芭蕉(当時37歳)は、二度目の出府の際同伴してきた甥の桃印らとその後同居していたらしいが、深川に来て、桃印には去られ、内縁の寿貞(後の寿貞尼)には逃げられ、蕉門は解体し、町内の名主でもあった小沢卜尺(小沢太郎兵衛)より紹介された日本橋の「書き役」の仕事も失ってしまった。
不義密通、郷里伊賀上野、兄が当主の松尾家(父は柘植出身の苗字帯刀を許された農民で、主家の厨房役であった)との関係、出家(主家藤堂家の小姓役を退き、僧籍に入る?)・社会的名声の喪失、蕉門の壊滅、経済的困窮。いつの時代でもありがちな破滅のパターンを地でいっている。

芭蕉はこの苦境をどう生き抜けるのか。
 芭蕉は 貧困と孤独のうちに苦悩し呻吟していた。


さらに、貞門・談林風と続いてきた俳諧に対して、杜甫や白楽天などの漢詩の影響を受けて、独自の俳境を生み出そうと苦闘していた。新しい俳諧への志のみが芭蕉を生きながらえさせていた。
とみる説がある。その根拠は次の「笈の小文」の一節である。

ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時は進んで人に勝たむ事を誇り、是非胸中にたたこふうて是が為に身安からず。暫(しばら)く身を立てむ事を願へども、これが為にさへられ、暫く学んで愚を暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、つひに無能無芸にして只(ただ)此の一筋に繋(つなが)る。


(みえ四日市禅会俳句部)
参考資料、竹人「全伝」、竹二房「芭蕉翁正伝」、穎原退蔵「芭蕉」、、「芭蕉総合年表」、フリー百科事典
関口芭蕉庵HP

 
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