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ブログ - 20180408のエントリ

三吉野や世上の花を目八分、禅者芭蕉読本㉒

延宝八年(1680年)、(芭蕉37歳、当時は宗房)四月「桃青門弟獨吟二十歌仙」が刊行された。

特に、其角・嵐雪のような優秀な門人がその中にいたのは大変な強みであった。

其角の入門は「五元集」序によると、延宝初年であったという。

其角自筆の年紀、淡々の「其角十七回」所蔵によると、「桃青門弟獨吟二十歌仙」に収められた一巻を獨吟したのは、延宝五年十七歳の時のことであった。

杉風や其角が宗房(芭蕉)に教えを受けたのは、江戸出府後間もなくであったようであるが、正式の入門は延宝四年秋宗房が再度江戸に帰った後のことだとされている。

つまり二十歌仙の撰集は、延宝五年頃から企画され、八年に至って完成したのである。

同じ八年には其角の「田舎の句合」と杉風の「常盤屋の句合」が、宗房の判詞をつけて公刊された。

其角自筆の年紀によると、ともに延宝六年の作であるという。

かように、江戸の俳壇での宗房の声望はいよいよ高く、

「桃青門弟獨吟二十歌仙」中で、嵐蘭は

桃青の園には一流ふかし

と自身の獨吟に揚句している。

また、二十歌仙は後世「若葉合」跋では「芭蕉翁の花」とも賞嘆されている。

かくして、宗房が再出府後、俳諧師として立つに至ったことは自他ともに認めるところであった。

しかし、この間に宗房が小石川の水道工事に従事していたことも伝えられている。

「風俗文選」の芭蕉傳に「甞世為遺功、修武小石川之水道、四年成、速捨功而入、深川芭蕉庵出家、年三十七」とある。

つまり、延宝五年から八年まで四年間、水道修工の事に関係していたというわけである。

水道工事によって功をたてようとするなら、俳諧は余技でやっていたことになるのか?という疑問が当然わくところである。



「これはこれはとばかり花の吉野山」

 

野口在色の遺稿「俳諧解脱抄」に、中頃桃青と名乗て東府(江戸)に吟ひ、此の道の宗匠を望み、萬句の會を催しける。

予わけてとりもちて成就しけり。

と伝えている。「中頃」とだけでは、いつのことか定かではないが、延宝七年四月に成った岸本調和撰の「富士石」に、

三吉野や世上の花を目八分   等躬

 

という句がある。三吉野とは古今にわたって桜の名所吉野の雅称、また、江戸期、吉原の高名な花魁の名でもあったと聞く。これは思い過ごし?

「八分目(に見る)」とは;

傲慢な態度で人に接する。人を見下す。

この萬句興行は延宝七年四月以前であったことが判明しているので、当時萬句の興行は、俳諧の宗匠たるべき資格とされていたので、宗房が在色のような江戸談林派の有力者の後援の下で萬句興行が成就することは、宗房の俳諧宗匠として、その地位を公けに認められたも同然であった。

「奥の細道菅菰抄」の「芭蕉翁傳」の二世卜尺の談に「しばしが程のたつきにと、縁を求めて水方の官吏とせしに」とある。

「筠庭雑録」に引用した延宝八年の「役所日記」によると、一定の日だけ出勤して現場の事務監督などにあたっていたようである。

要するに衣食の費用を得る為に為せる技、現代で言えばアルバイトであった。
(三重四日市禅会俳句部)
参考資料、竹人「全伝」、竹二房「芭蕉翁正伝」、穎原退蔵「芭蕉」、、「芭蕉総合年賦」

 

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