メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2017 12月 » »
26 27 28 29 30 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 1 2 3 4 5 6
カテゴリ一覧

ブログ - 20171212のエントリ

こちとうずれも此の時の春、禅者芭蕉読本⑲

 延宝3年(1675年)5月、宗房(芭蕉)32歳、二度目の江戸出府早々、かねてから江戸東遊の西山宗因歓迎百韻に初めて桃青の俳号で出座した。

穎原退蔵著「芭蕉」によると、すでに芭蕉自ら「「上に宗因なくんば、我々の俳諧は今以て貞徳の涎をねぶるべし」と言い、一時は談林派の風潮に心酔しきっていたのであるから、芭蕉が宗因の東下を絶好の機会ととらえていたことは当然かんがえられることだとしている。
 

宗房がこの時一座したのは、僧侶縱(原語、石+從)畫という人物の許で、その座には幽山・信章(山口素堂)・似春等で、宗因の発句、縱畫の脇で始まった百韻一巻の興行であった。

この一巻の興行によってはじめて、当時の宗房(芭蕉)が宗因と親しく接したことが明らかにされたのみならず、幽山・信章(山口素堂)・似春等と相知りあう縁となった。

この時初めて「桃青」の俳号を使用するが、この号は延宝3年5月以前のそれほど遠くない時期から使用し始めたとかんがえられ、由来は諸説あるようである。

いずれも憶測の域をでない、宗房が談林派の新しい風に呼応しようとの気概が現れたものとの解説が主流で、李白を意識した、滑稽の中に自ずから気負う青年の客気を見る見方である、

宗因とあい見えたことによる宗房の俳諧生活に及ぼした影響は、古風から新風への転向に拍車をかけたというのが通説である。

延宝4年2月、信章(山口素堂)との「奉納貳百韻」の第二巻巻頭;


梅の風俳諧國に盛んなり       信章


 こちとうづれも此の時の春     桃青

 

註)「梅の風」とは西山宗因(梅翁)の俳風。

「こちとうづれ」は「我々ども」。一句は自分たちもこの談林風の盛んな春を謳歌しようとの意味である。

先の「貝おほひ」で清新軽妙の才を発揮した宗房。

談林(派)の風という俳壇のこの新しい動きに対して、敏感に反応した宗房、古風の俳諧はすでに全く時代の支持を失っていた。
 

延宝3、4年の頃、宗房はこうして談林派の作家として自覚を深めていた

青雲の志を抱いて江戸に出てから、早くも3,4年
 

経っていたこの時期はしかし、定まる職もなく、きまった住家もなかったのが現実であった。
 

考証的な根拠は乏しいが、少なくとも当時の世俗的成功への道に歩み出していたとは到底思えない時期であったことは、芭蕉総合年表からも想像に難くない。
 

(三重四日市禅会俳句部)


 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (109)