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ブログ - 20171103のエントリ

禅者芭蕉読本⑰俳諧の師北村季吟
 

芭蕉の青年時代の主君藤堂良忠は当時新興の文芸であった俳諧を北村季吟に学んだ、俳号を蝉吟といったのも、季吟の一字をわけてもらったのだといわれている。

このころ、後の芭蕉である、金作少年は元服して、通称藤七郎、また忠右衛門、名を宗房と呼んでいた。

伝記によると、曾ては若い主君の遊戯の相手であった金作少年はこのころにはすでに主君良忠(蝉吟)の句作の相手になっていたという。

年表には最古の句「春や来し年や行きけん小晦日」(19歳)があげられている。

伝記は金作を俳諧に導きいれたのは、主君蝉吟の力によるものであった。としている。23歳の時2歳年長の主君でもあった蝉吟と死別するが、その後6年間仔細不明となる。

さらに年表によると、29歳で東下。31歳の時、伊賀上野へ初の帰郷を果たし、同年、北村季吟から俳諧論書「埋木」を授与されている。
 

伝記ではこの頃貞門派の北村季吟との師弟関係が成立したのでは、と記している:
 

電子辞典では;芭蕉の俳諧(貞門派)の師、北村季吟を以下に紹介している。


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/%E5%8C%97%E6%9D%91%E5%AD%A3%E5%90%9F.jpg/260px-%E5%8C%97%E6%9D%91%E5%AD%A3%E5%90%9F.jpg


北村 季吟 きたむら きぎん

北村 季吟は、江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。名は静厚、通称は久助・再昌院、別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭。 

1624119日~170584

出身は近江国は野洲郡北村(現在の滋賀県野州市。)。祖父の宗龍、父の宗円を継いで医学を修めた。はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、『山之井』の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。

飛鳥井雅章・清水谷実業に和歌、歌学を学んだことで、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、元禄、2年には歌学方として500石にて子息湖春と共に幕府に仕えた。

以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。

俳諧は貞門派の域を出なかったが、『新続犬筑波集』、『続連珠』、『季吟十会集』の撰集、式目書「埋木(うもれぎ)」、句集「いなご」は特筆される。山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出している。

宝永2年(1705年)死去、享年82

台東区池之端の正慶寺に季吟の墓(東京都史跡)があり、墓石正面に「再昌院法印季吟先生」、墓石側面に「花も見つ郭公(ほととぎす)をもまち出でつ この世 後の世おもふ事なき」と辞世の句が刻まれている。(ウキィペディア)

末裔に、長野県歌「信濃の国」、を作曲した北村季晴、北村春吉(数学者・サッカー選手がいる)

 (三重四日市禅会俳句部)


 
 

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