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ブログ - 20170927のエントリ

 
(風流ならざるところ也風流、坐禅和讃新講㉞ 

(この)(とき)何をか求むべき    寂滅(じゃくめつ)現前する故に

当処
便(すなわ)蓮華(れんげ)国      此の身即ち仏なり


 

『文珠所説摩訶般若』の中の【清浄の行者涅槃に入らず 破戒の比丘地獄に堕せず】に対して、白隠老漢がおいた偈頌に次のものがある。
【閑蟻争い引く
(せいてい)の翼、新(えん)並び(いこ)う楊柳の枝、山婦は藍を携え
て寀色多く、村童は
(じゅん)を偸んで疏籬(そり)を折る。】
 ここで青というのはとんぼのことであり、筍とはたけのこで、疏籬とは、垣根である。
 丁度庵でいい気持ちで居眠りをしている庵主をわざわざゆすり起こして、門前の小僧がたけのこを盗んでゆくぞ と、告げ知らせてやっているようすでつまりは、五慾の素凡夫の境涯にかえった消息である。
修行に修行を重ねてみたが、畢竟労して功なし。
いらざることをしたものじゃわい、ということになる。
衆生の生滅心そのままが大涅槃で、そこに仏だの法だのといらざることをつけぬがよい。
「山奥の白木の器(うつわ)そのままに うるしつけねばはげ色もなし」坐禅をして悟りを得たの、般若の智慧を得たというのが、よくよくみれば恥の上ぬりであったわいという。

 耕雲庵老師の句に「元日や水(ばな)たれて大愚たり」というのがある。よく味わうとよい。



しかしそれなら、何故そんな無駄なことをわざわざするのか。


そこに又、得(え)もいわれぬ風流味がある。
これを風流ならざるところ又風流という。
この味は同床(どうしょう)に臥(ふ)してふとんの破れ具合を知ったものでないと味わうことはできない。 
 万々出世の祖師方は、担雪塡井(たんせつてんせい)をやってござる。


山を下りて、わざわざ雪を背負っては、それを井戸に投じて塡(うず)めようとする。


畢竟(ひっきょう)無駄なことである。
すぐ水に溶けてミジミジとなくなってしまう。
何故このようなおろかなことをしているのであろうか?
珊瑚(さんご)枕上(ちんじょう)両行(りょうぎょう)の涙 半ばは是れ君を(おも)い 半ばは君を(うら)む】という語があるが、まことに酔(すい)を憎んで酒をすすむという有様である。
 ここのところが真の寂滅現前底(じゃくめつげんぜんてい)である。
「この時何をか求むべき。」
ここでは長い間求めつづけてきた仏法も悟りもいらぬ。
求むべき一法とてない。
(白隠禅師坐禅和讃新講―白田劫石 述 「第4段(4)
(この)(とき)何をか求むべき 寂滅(じゃくめつ)現前する故に 当処便(すなわ)蓮華(れんげ)国 此の身即ち仏なりー人間禅叢書第6編 文責 豊橋禅会IT担当 田中宗晃)

 

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