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ブログ - 201703のエントリ

茶禅一味とは?⑪「茶味」注解発刊にあたり
 
 奥田正造先生の茶道は、日本文化の粋(すい)ともいえる茶の湯の本源に立ち還(か)える修行であり、
 侘(わ)び茶を完成した千利休の簡素静寂(かんそせいじゃく)の精神を汲み、仏道の先賢の蹝蹟(じゅうせき)をたずねて心を練(ね)る茶の湯でした。
 
 奥田先生は、大正六年東京成蹊高等女学校に招かれ、茶室不言庵を茶道教育の道場としました。
 庵で教え子を相手として「この道の楽しみが分かった」という、その話を書くように、中村校長から言われて生まれたのが「茶味」であった。
 大正十年一月長野県へ教員講習に招かれ、信州との深い縁(えにし)が始まった。
 この年校長となり、昭和五年には茶室法母庵を建て、茶道教育の軌道が敷かれた。
 奥田先生が信州へ出講するようになったのは、昭和三年の佐久が皮切りで、つづいて県内の各郡に不言会が生まれ、二十一年には全県を連合する信濃不言会が設立された。
 先生没後、昭和五十年に、先生の道統を護持する法母庵友の会が設立され、同年成蹊やよい会、信濃不言会など門下生有志によって発足した。
 
 「茶味」は、今でも生きた古典となっている。
 主客の応接、茶の手前の「心の働き」が説かれている。
 茶人の歴史が紡(つむ)ぐ、その行跡(ぎょうせき)を尋ね、聖賢・先師の訓話をひいて、所作の稽古によって道心を練る境地が述べられて、いる。
 
 不言会やその他の修道のテキストとして広く用いられてきたが、現代人には難解な語句が多くあり、その注釈書が広くもとめられている。
 今回、先生直門の田中清講師によって本書が編述され法母庵友の会により発行されました。(平成二十年七月 法母庵友の会 代表理事 中村一雄)

 

写真は岐阜洞戸坐禅道第110回摂心会「お茶のご相伴」風景
、お点前は人間禅有楽流吉元虎丘居士


「茶味」著者奥田正造先生略歴

 奥田正造先生は明治十七年三月三日、岐阜県高山市に出生、七歳の時に十二歳の姉姉美子とともに国分寺住職より、表千家流の茶を習い、明治二十四年二十五歳の時に帝国大学を卒業すると、済美高等女学校に勤務。同僚に有楽流の茶を行う人があり、その茶を習う。
大正二年、三十歳のときに淑徳女学校に転任、この年「南方録―千の利休の高弟宗啓が、利休から親しく見聞した茶の湯の心得を記したものとして、立花実山が編集した、いわば茶道の聖書ともいわれる書。」を浄写。
後年、「炉辺閑想」で「これを筆写する労苦は
一句一句を味わ得る好縁となった。」と記している。
大正四年、三十二歳、松平愛子と結婚。
三十四歳の時、中村春二校長の招きで成蹊女高兼務。 茶室「不言庵」を建てる。
淑徳女学校から成蹊女学校へ転任。
大正八年、三十六歳、「茶味」を書く。(中村春二先生の要請で「茶味」と題名までいただく。)
 三十七歳、「茶味」初版、成蹊学園出版部 定価1円。この年、校長に就任。
大正十三年二月、中村春二先生逝去(満四十七歳)
昭和十二年、五十四歳、三月二十日「炉辺閑想」(昭和十年文部省教学より委嘱)を書く。十一月「炉辺閑想」共立社(和とじ)出版。
昭和十八年、六十歳 わが女子教育(皇国の女子教育)文部省教学局へ原稿提出。
昭和二十一年、六十三歳「茶味」四月発行 鎌倉書房 定価十円。
同年、八月、二十四日から、三泊四日の安居会が長野県上水内郡芋井村(現長野市芋井)飯縄寮で開催されました。
その折、奥田正造先生は大正八年に書かれた「茶味」につぃいて講義され、その冒頭で、「茶味」もだんだん古典化してきたので、若い人のために注釈書を書く必要がある。」と申されましたが、その四年後、病を得て逝去されたのでした。
昭和二十五年 三月九日 逝去(六十七歳)
昭和三十四年 没後 「奥田正造全集」(上・中・下)三巻 信濃教育会出版部
昭和五十六年 没後三十一年 「奥田正造選集」法母庵友の会定価千円。
平成元年 一月 「奥田正造撰集」増補版発行 法母庵友の会定価千円。
平成十四年 九月 「茶味」平成版、万丈堂出版 定価千五百円。
 
以上が奥田先生と「茶味」出版の経緯と略歴ですが、今となって、奥田先生の茶味注釈書の内容はさだかではないのですが、昭和四十五年屋代小学校の職員研修「茶味」読み合わせ会を皮切りに、昭和四十九年木曽郡楢川村贄川小学校でも「職員研修、茶味読み合わせ会」で行った資料などをたよりにして、今まで行ってきた研修資料を一気に集大成したいと念願いたしました。
 幸い、奥田正造全集中巻222ページの「行解相応」(大正十年十二月)は、先生が大正八年「茶味」出版の直後、松本女子師範学校の講習会で講演された「最少生活」の要項であり、「茶味」の解説です。
 これを主として、さらに同じ中巻340ページの「茶室作り」も参考にして、私なりに「茶味」を読むときの一つの手がかりになればと、「茶味 註解」の和とじ120ページの小冊子にまとめてみました。
 その後、各地区の「茶味」講習会・読み合わせ会のご要請があり、小冊子を補正してきました。(法母庵友の会 事務局 田中清)
 
(茶禅一味の会 記念茶会―H.20年9月22、23、千葉県市川市、人間禅道場より)
 
 
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がんのための「免疫力活性のコツ」②人間禅名誉会員船戸先生の提言

 がん細胞の特長(故安保教授より)
  • 酸素が嫌い=低酸素が好き
  • 熱が嫌い=冷えが好き
  • 砂糖大好き(がんは大食漢)
 
がん細胞の特徴
 
がんを許す生活習慣とは何でしょうか?
 
これは、がん細胞の特徴を知ると理屈がわかってきます。
  • がん細胞は、酸素が嫌いです。
 
安保先生は、低酸素の状況が日常生活で続くために生き残りの手段として正常細胞が原始時代回帰を起こし、エネルギー代謝方法をミトコンドリアから糖質分解(解糖系)へシフトした結果であると述べられました。
 (20億年以上前の未だ地上の酸素がなかった過酷な時代に生命体が生き抜く方法として身につけたエネルギー代謝が解糖系)
 
  • がんは熱が嫌いです。
 
ハイパーサーミアという治療法自体が細胞内温度を42.5°C以上にすることを目指します。
この体温では正常細胞は生存できますが、がん細胞は死滅します。
そして、42℃以下でも、細胞内に存在するHSP(HeatShockProteinn)熱ショックタンパク)を活性化することで変異した遺伝子が正常化し延いてはがん予防、がん治療に有効であることも証明されています(修文大学、伊藤教授)。
 
  • がんはお砂糖(糖質)が大好きです。
 
わたくし達の脳と赤血球は糖質のみが唯一の栄養源です。
何と脳だけで一日120gもの糖質を必要とします。
精神的、肉体的ストレスへの糖質摂取が即効性がありますので、糖質ほど有効な栄養源はありません。
問題は糖質には依存性があるということと、何よりがんが大好きだということです。
余分な糖はまずがんを成長させるので、適切な運動での消費が重要なのです。
 
いかがでしょうか?こうした特徴がわかれば、どうするとがん細胞を抑えることができるかがわかりますよね。

(船戸崇史船戸クリニック医院長・フナクリ通信より)



船戸崇史船戸クリニック医院長
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土佐の野中兼山と洪自誠、宗演禅師菜根譚講話(十二)

面前的(めんぜんてき)の田地(でんち)は、放(はな)ち得て寛(ひろ)きを要(よう)す。
人として不平の歎(たん)なからしむ。
身後的(しんこうてき)の恵澤(けいやく)は流し得て久(ひさ)しきを要す。
人をして不匵(ふき)の思(おもい)あらしむ。

 
面前(めんぜん)は眼前(がんぜん)と同じ意味で、
現在のことである。
仏教書には「心地(しんち)」という語が挙げられているが、心が色々の煩悩をつくりだす様子は、まるで、地上にさまざま雑多な草木が生えてくるが如き有様で、心のことを古来心地と言ってきた。
 ここで、「田地」とは、心地、つまり心のことである。
面前的の田地、すなわち、現在の心、つまり、生前の心である。
人がこの世に生存している間の心の在り方は十分、開けっ放しの寛大なることを要す。という。
賢者も愚者も、善人も、悪人も、ことごとくこのことに心して、選り好み、好き嫌いがあってはならない。 かくの如くであるなら「人をして不平の歎(たん)なからしむ」で、不平を鳴らし、自分自身に小言を言う者はなくなる。

身後的(しんこうてき)の恵澤(けいたく)、つまり、死後に残る恩恵徳澤(おんけいとくたく)は、できるだけ永遠に伝わるように心がけて、永い眼で見て、生前に布施しておくべきで、けっして、目前の、一時しのぎの小恵を施すことばかりにのみ汲々としていてはならない。
このような時こそ、人は不匱(ふき)の思いがなければならない。
匱(き)は「乏し、乏しい」という意味。
したがい、不匵(ふき)とは「乏しからず」という意味で、不匵(ふき)の語は、詩経の「孝子(こうし)匵(とぼ)しからず 、永く爾(なんじ)に類(るい)を賜う」とあることから出た語である。
                     
    野中兼山像と  
物部川につくられた山田堰(跡)、この堰が荒れ地を美田に変え、後免町の繁栄を生み出した。

昔、土佐の藩政改革に力を尽くし、治績をあげた野中兼山は、当時有数の儒学者で、江戸在勤を終えて、帰国の途に就こうとするとき、郷里の人々に対して、土産にハマグリを持ち帰ると伝えた。

郷里では今日か明日かと待っていると、やがて、舟が港に着くと、満載したハマグリをすべて、海中に投げ捨てて、待ち受けていた出迎えの家中の人々をあ然とさせたという話があるが、実はこれらが、「身後的(しんこうてき)の恵澤(けいたく)を久しきに流し得た」もので、それまでは土佐ではハマグリは産しなかったが、それ以来、土佐は現在にいたるまで、ハマグリの名産地となったのである。
兼山は、その他、港湾の土木工事を行うなど、船便の振興や殖産に意を用いて、民利幸福を後世にもたらした。
このような人こそ、土佐人士として、永久に不匱(ふき)の思いを有していたというべきであります。

もちろん、身後的恵澤(しんこうてきけいたく)とは、敢(あ)えて、物質的な面だけでなく、思想界の先覚者となり、後人を啓蒙して、進むべき精神世界の方向を指し示している本書の著者の洪自誠(こうじせい)その人もまた身後的恵澤(しんこうてきけいたく)を流し得て久しき一人であるというべきでありましょう。
 
 
 
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交剣知愛で禅の普及を

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ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2017/3/27 9:17



智常です

関西支部は剣道家が多いと言われながらも
定期的な稽古会ができていませんでしたが、
アレック居士の入会を機に初めての稽古会を
3/19 関西大学の体育館で行いました。
新到の方も1名参加され熱のこもった稽古となりました。
交剣知愛
剣道の交流を通じて親睦の輪を深め、ひいては禅の普及に務めたいと思います。
残念ながら小生は頸椎ヘルニアで右腕を痛めており見学に甘んじました。
次回は必ず参加いたします。
智常 九拝
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在家の禅、勝鬘経の世界⑫

我れを哀愍(あいみん)覆護(ふくご)し、法種をして増長ならしめ、此の世にも及び後の生にも、願くは常に摂受(せつじゅ)したまえ。


この偈(げ)は「法種」を絶やすことのないよう」夫人が心をこめて願っているのです。
 衆生本来仏なりというように、仏になる素質としての法種は誰しもが生まれながらに備えていますが、多くの人はこの法種に気づかないで悩んだり迷ったりしています。
 あるいは法種にきづいても修行を怠っていると迷雲(めいうん)に掩(おお)いかくされて見失ってしまうものです。
 勝鬘(しょうまん)夫人は今仏性(ぶっしょう)を見て、自分に備わっている法種の尊さを知ったのですが、さらにこれに磨きをかけ、仏性を最後まで見徹(けんてつ)できるように仏に加護(かご)を願われたのです。
しかし裏を返せば、自己に向かって法種を絶やすことのないよう大願を立てられたことになります。

 


我れ久しく汝を安立す、前世巳に開悟せり、今復た汝を摂受す、未来の生も亦然せんとのたまう。

 
 夫人の願いに対して、仏は三世にわたって必ず加護するであろうことを請け合われたのです。
 しかしいくらお願いしても自分にやる気が無ければ願いが達せられるはずはありません。
又願いが小さければ願いが達せられるはずがありません。
又願いが小さければそれだけの小果(しょうか)しか得られません。
ここで仏が三世にわたって夫人に安心立命を与え、
仏道を成就せしめると、広大無辺の慈悲を示されたのは、一にかかって勝鬘夫人の崇高な大願と、その赤心(せきしん)によるものです。
この誠意さえあれば誰でも成道(じょうどう)し大安心(だいあんじん)を得ることができるはずです。
 
註)
摂(せつ)
とらえる、おさめる。
仏性(ぶっしょう)
 一切衆生(しゅじょう)が本来持っている仏としての本性。
加護(かご)
神仏が衆生を守り助けること。
三世(さんぜ)
佛教で前世、現世、来世 また、過去・現在・未来
親・子・孫の三代
安心立命(あんしんりつめい、あんじんりゅうめい)
心を安らかにし身を天命に任せ、どんな場合にも動じないこと、立命は儒教より出た語。
赤心(せきしん)
いつわりのない心、まごころ。
安心(あんしん、あんじん)
心配、不安がなく心が安らぐこと。安らかなこと。
成道(じょうどう)
成仏得道(じょうぶつとくどう)のこと。佛の悟りを完成すること。(広辞苑)

(小野円照著「勝鬘夫人の告白」より)
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現在整備されつつあるルンビ二ー聖園



「お釈迦様ものがたり」によると、
釈尊は、約二千六百年前、インドに誕生された。
父を浄飯王、母はマーヤ夫人といい、住む城をカピラ城その国名をカピラエ国と言った。ヒマラヤ山麓に位置したカピラエ国は、部族名を釈迦族と言い、釈尊はそこに君臨する国王夫妻の王子として生を受けられた。
久しく子供に恵まれなかった夫妻であるが、白象が体内に入る夢とともに懐妊した。出産が近づき、夫人の実家であるくり城に向かわれる途中、ルンビニー園という花園で休息し、そこに咲く、純白で香りの良い無憂樹が、余りに綺麗であったので、一枝、手折ろうとされたとき、急に産気を感じ、王子を出産された。

ときに四月八日、百花繚乱の花園にちなんで、釈尊の誕生を祝う行事を「花まつり」と称するようになった。
そのままカピラ城に戻られたマーヤ夫人は、難産だったため、産後七日目にして逝去しておられる。
待望の太子に恵まれた浄飯王は、悉達多太子と命名した。
やがて浄飯王は、太子を優れた後継者とすべく、


太子七歳の折、当時有名な学者バッダラニーと、武芸の達人、センダイダイバーを文武の師として城に招き、
英才教育を開始した。
ところが、悉達多太子の聡明さは、一を聞いて十を知り、十を聞いて百を知る。
武芸両面にも抜群の能力を示して、たちまち、両師匠をこえてしまった。
ほどなく、両師匠が、辞職を願い出ていることからも、いかに利発であったかがうかがえるのです。
●弱肉強食の世界を知る
 悉達多太子十二歳の時、一つの事件が起こった。
春を迎えたある日、城外で豊作の祈る耕転祭(田起こしの儀式)が行われた。
 浄飯王が鍬を打ち込んだ後、掘り起こされた土の中から、小さな虫が顔を出した。
 すると、それを見つけた小鳥が飛んできて、虫をくわえて飛びたった。
するとさらに、一羽の鷲が急降下して、その小鳥を爪の間にしっかりとらえて、いずこともなく飛び去ったのである。
一瞬の出来事に太子は呆然とする思いであった。
「地獄・・・」とつぶやいたかと思うと、近くの大樹の下に坐し、瞑想されるのであった。
「弱肉強食は自然の法則、生きるためには、やむを得ないことなのか・・・」

 すでにバッダラニーの指導により、バラモンの根本経典である『ベーダ』を、暗誦するほどに学んでおられた悉達多太子は、これを契機として思索に耽ることが多くなっていった。
 
 

iインド最北の地、杏の花咲くラダックの春

 成長されるに従ってその傾向は強くなり、浄飯王としては、アシダ仙人の予言が思い出されてならない。
 結婚させれば、太子の憂いも晴れるだろう、との思惑より、浄飯王は、当時、才色兼備と評判の高かった麗人・ヤショダラ姫を太子の妃としてカピラ城に迎えようとした。
 ヤショダラ姫を巡っては、従兄弟の提婆達多(ダイバダッタ)との間に恋い争いがあったと伝えられている。
 浄飯王が、ヤショダラ姫の父親、くり城の善覚王に婚儀を申し入れたとき、善覚王は、「当城の掟として娘を嫁に遣わすには、相手が武芸の達人に限る、となっている。
 もし娘をお望みならば、技能のほどを示してもらいたい」
と答えた。
 提婆達多(ダイバダッタ)もヤショダラ姫への思いを寄せていたので、両者が武芸で競うことになったが、所詮、提婆達多は悉達多太子の相手ではなかったという。
 ヤショダラ姫との結婚により、一時は、煩悶を忘れて、快活に振る舞うようになった太子だが、長続きはしなかった。
 約一年後、ヤショダラ姫が男子を出産した。
 使者からそれを聞かされた太子は、「ああ、ラーゴーラが生まれたか」と一言だけ言われた。
 「ラーゴーラ」とは「支障」を意味する。
 子は三界の首かせ、自分が真理を求めるのを束縛する者が現れた、との意味である。
太子の心が分からぬ使者は、生まれた子に“ラゴラ”と名付けよとの思し召しと解釈して帰ったので、王子は「ラゴラ」と名付けられてしまったという。
 
シッダルタ(ゴータマ・ブッダ)青年はヤショ-ダラー妃とお釈迦様物語で今述べましたように、16才で結婚して、後年、一人息子ラーフラ、漢訳では羅喉羅(ラゴラ)。
意味は諸説があるようですが、「障害をなすもの」という、何とも悲しい名前で、意味深ですが、この息子は後にゴータマ・ブッダの十大弟子の一人になるのです。
釈尊にすれば、一応、王子としての義務を果たしたということで、後の出家も可能となるのです。

(慧日庵老禅子、擇木禅道場仏教講座より)
 
 

仏教講座講師
慧日庵笠倉玉渓老禅子

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クルマでの交通案内ー東海北陸道 美濃インター下車20分または岐阜市街から256号線北へ40分

カーナビで・・・目的地「人間禅岐阜洞戸(旧東海)坐禅道場」またはTEL:0581-58^7014で検索下さい。

                                                                                            
      


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三重四日市禅会の小川韶春です
 
 先週日曜日、国公立大学後期試験が終わり、大方の大学入試の日程がほぼ終わりました。新しい進路が確定した人も多くいることでしょう。それより前にさかのぼりますが、今年のセンター試験の国語の問題文に、漢文は日本人たる新井白石、古文は江戸時代に書かれた擬古物語で出題がされていました。何十年という共通テストの中で、出題文が使いつくされたのか?
 さて先日、通勤で読むための本を探しに本屋さんに行ったら、万城目学氏の新版文庫本「悟浄出立」が目に入りました。「鴨川ホルモー」や「プリンセストヨトミ」を書いた万城目氏の、西遊記物でわき役が主人公という。きっと面白いに違いないと手に取って序文を読んでみました。万城目氏曰く、「高校時代、現代文のテストにとんでもなく面白い文章が出題された。・・・テストそっちのけで文章に没頭した」とある。こういうのこそいい問題だ!そして万城目氏は、その文章は中島敦の「わが西遊記」と後でわかって、そのつづきを自分で書きたいと思い続け、機会を得てこの小説を書いたとのこと。私自身もかつて中島敦の「山月記」を使った問題文にひきこまれたことを思い出します。
 本書では、お経を求めて旅を行くご存じ三蔵法師一行が、その一行中最強の孫悟空が留守をするタイミングで、いつもの通り三蔵法師、猪八戒、沙悟浄が敵の妖怪にとらわれる。とらわれの中、沙悟浄が、猪八戒がかつて天界で無敵の天蓬元帥であったころと、過ちを犯し今では地上界に落とされて間抜けな豚の妖怪となっているが、きわめて前向きな気持ちでともに取経の旅にあることを聞く。
 猪八戒の犯した罪とは何か?猪八戒の述懐を聞いて沙悟浄は何を悟ったのか?孫悟空によって救出された一行はどこへ向かうのか?
 猪八戒曰く、「・・・過程こそが最も苦しい。天界と違って、人間界ではそこに最も貴いものが宿ることがある」。悟空曰く、「好きな道を行けよ、悟浄。少し遠回りをしたって、また元に戻ればいいんだ」とこう切り取ると、卒業式での校長先生かPTA代表の言葉のようですが、中島敦の文体を模倣した万城目氏の文章は、一文、一語なんともいえず面白いものがあります。
 ところで、実際、息子の高校の校長先生は卒業式でこう言葉をかけていました。「禅の言葉に『随所に主となる』という言葉がある、みんなにはそれぞれの場所で存分に活躍してほしい」。臨在和尚は「随所に主となれば、立所みな真なり!」と言われています。自分が自分の主となってはたらけば、周りにいる人も感化され、己が己の主となり、生き生きとした社会を作ることができるという意味もあろうかと思います。猪八戒は、三蔵法師のもとで進化を続けどこまでも強くなる悪ザル孫悟空に触発され、沙悟浄はそんな猪八戒に触発される。どんな困難があっても、いや困難があるがこそ、こんな旅は楽しくないわけがない。
 もうすぐ新年度4月。新しい旅に出る人たちもいるでしょう。みちみち妖怪たちに誑かされることもあるでしょう。道を求める仲間を得ることは大事といえます。
 それはそれとして、来月4月は12日から名古屋で摂心会があります。16日日曜日まで泊まり込みの坐禅会です。取経の旅は続きます。ご一緒にいかが?
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セロトニン神経が活性化されると、理由もなく、うきうき舞い上がる心を抑え、ストレスや不安で落ち込むこともない心の状態、すなわち禅でいうところの平常心をつくりだすと考えられます。
 心の三原色がバランスよくまざりあっている状態が、人間のあるべき姿で、快もあり、不快もある、なおかつ、それらを制御できる心があることが望ましい人のありかただとされる有田先生はドーパミンとノルアドレナリンに言及してさらに論究されています。
心の三原色、つまり紫の心の色は、ドーパミンの赤とノルアドレナリンの青がまざりあったものである。   
快である期待や意欲と、不快である不安やあきらめの気持ちがまざりあったものである。と。
試合や試験などに臨む時の心境です。
青と緑がまざりあうと、たとえば、水がうたれた庭の活き活きした苔の色、侘(わ)びや寂(さ)びにも通じるものがあります。
あきらめと平常心が重なると、寂びの真情が見えてくるともいえましょう。
少し脇道にそれますが、三夕の歌という新古今和歌集に有名な和歌があります。
この三夕の歌から、侘び、寂びの感情の由来と茶道との関係を述べてみたいとおもいます。
 
さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ(寂蓮)
 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ(西行)
 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ(藤原定家)
 
いずれも「秋の夕暮れ」を結びとしています。
共通しているのは「一般化された秋の風景」を否定して、「独自の秋の風景」に美しさ見つけている点です。
「一般化された秋の風景」とは月や七草、紅葉など新古今和歌集独特の秋の風景です。古今和歌集にはほとんど詠まれていません。
 この 「秋の夕暮れ」の寂寥感と美の感情はいつ誕生したのか、それは歌人にヒントがあるようです。
 西行と寂連、この二人は共に仏道を歩んだ歌人でした。
 二人が生きた平安末期から鎌倉時代にかけて、仏教では末法思想が信じられていました。
 末法思想は仏教の歴史観で、1052年を末法元年として釈迦の教えが消滅した「法滅」の時代になり、世の中が乱れるという思想です。



「苔庭とうらのとまやの秋の夕暮」

 その教えが正しいかのように、平安末期は「保元・平治の乱」、「治承・寿永の乱」といった大きな争いが起きました。
釈迦が消滅した。
これが歴史の授業で学んだ「鎌倉新仏教」の起こりでした。
別の仏の代表が「阿弥陀如来」でした。
阿弥陀如来は十億万仏土先の西方にいて、その地こそが極楽浄土とされました。
 西行の名にある「西」の文字も、この浄土を願ってのことでしょう。

万事が朽ち果てる無常な秋、その遥か西方に沈む夕日に浄土を望む。
 この言葉にならない荘厳な美しさを、寂連、西行は歌にとどめたのです。
ところが藤原定家。
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」
寂連、西行の歌は「さびしさ」、「あわれ」といった感情を詠み込んでいて、歌に主題がありますが、定家の歌にはそれが一切ありません。
 あるのは花と紅葉の残像に浮かぶありのままの平凡な夕暮れ。
 まさに、鎌倉仏教、唐、宋より伝来された達磨禅の境涯を先取りしたかのようです。
鴨長明は歌論「無名抄」で、「秋の夕暮の空の景色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなる趣あるべしとも思えねど、すずろに涙のこぼるるがごとし。これを、心なき者は、さらにいみじと思はず、ただ眼に見ゆる花・紅葉をぞめではべる。」と論じ、さらにこの感情が「幽玄」であると、記しています。

定家の「秋の夕暮れ」は、後の「わび茶」においても重んじられ、茶人千利休の師であった武野紹鴎が記した「南方録」、わび茶の秘伝書に、定家のこの歌こそが「わび」の心であるとしています。
まさに伝説的な歌ですが、さらに驚くべきはこの歌を詠んだ時、定家はまだ25歳でした。
百人いれば百通りの深い感じ方がある「秋の夕暮れ」「三夕の歌」です。


 
(西岐阜静坐会主宰、前岐阜洞戸坐禅道場長、日本中医薬会会員 葛西松堂 講演より)
 
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