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ブログ - 20170224のエントリ



 
「きても見よ甚兵衛が羽織花ごろも」禅者芭蕉読本⑦

 当時の俳書「続山井」「如意宝珠」「大和順禮」「山下水」などの芭蕉の俳句は貞門の風潮に終始していたが、寛文(1661〜1673)の末頃には、新しい展開が始まる。
 俳諧の通俗性と自由性に対して、更に徹底的に開放を求める談林の新風運動がおこった。
延寶(1673〜1681)年代になると、一般的な動きとなって、宗因門下の新鋭たちが活発な革新運動の機運を示していた。
 芭蕉は貞門のなかでも穏健な季吟に師事していたが、感受性の豊かな若者宗房(芭蕉)もこの新風にひかれていた。
 京都遊学から郷里伊賀上野に帰った宗房は最先端を行く熱意で撰んだのが「貝おほひ」一巻であった。
「貝おほひ」は寛文十二年正月二十五日、伊賀上野の鎮守菅原社に奉納した三十番の発句合わせで、芭蕉の処女撰集であった。
板行されたのは江戸へ東下する後で、発句合わせが成ったのは正月二十五日より後のこととされている。
つまり江戸への東下の際の置き土産と従来の自己の俳諧に対して新味を出そうとしたものとおもわれている。
「貝おほい」の序文によると、当時の小唄や流行の言葉を使い、仕立てた発句を左右に配してその優劣を判じている。
芭蕉自身の句を合わせた九番と二十番をあげて、その様子をみると、

左、(勝)              露節
鎌できる音やちょい 々 花の枝
 
 右                  宗房
きても見よ甚兵衛が羽織花ごろも


                   
                     陣羽織(ウキペディアより)

芭蕉の原文の解説は次のように始まる。
左、花の枝をちょい 々 とほめたる作意(作者の意図)は、
「ちょいちょい」とは江戸初期の頃、歌舞伎の野郎(少年俳優、役者)などを褒める場合によく言われていた、ものを嘆賞する言葉で、句ではそれを鎌できる音にかけたのである。
甚兵衛羽織は丈の短い尻の裂けた羽織で、小唄の文句にでてくることがあった。
「きても見よ」は「着てみて」と「来て見て」と書く。
誠に俳諧の親〃(優れている意味、見本、手本―「この中にこの子の親はいないか?」は当時の子供の芸を褒める言葉、現代の親の顔が見たい、の反語か)
ともいわまほしきに、右の甚兵衛が羽織は、きて見て我折りや(我を折る、とは我を張るのを曲げて従うこと。「我を折りや」は「我を折れよ」である。「きて見て我折りや」も小唄の文句で、この句に対して閉口せよ、降参せよ、との意をきかせた。)といふ心なれど、一句の仕立て(染め出す、と共に羽織の縁語)もわろく、染め出す言葉の色もよろしからず見ゆるは、
愚意(愚見―謙譲語)の手づゝ(稚拙、不器用)とも申すべく。
そのうへ左の鎌のはがねも堅さうなれば、甚兵衛があたまもあぶなくて、負けに定め侍(はべ)りき。(そんな次第で儂の負けとなってしまいましたワイ。ーわしが悪かった何卒命ばかりはご勘弁をか?) 
 
(三重四日市禅会俳句部)
 
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