メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2017 8月 » »
30 31 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 1 2
カテゴリ一覧

ブログ - 「雲収まって山骨露わなり」坐禅和讃新講㉒

「雲収まって山骨露わなり」坐禅和讃新講㉒

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2017/3/13 12:26
「雲収まって山骨露わなり」坐禅和讃新講㉒
 
況(いわん)や自(みずか)ら廻(え)向(こう)して    直(じき)に自性を証すれば
自性即ち無性にて     已(すで)に戯(け)論(ろん)を離れたり
因果一如(いちにょ)の門ひらけ    無二無三の道直(なお)
 
禅語に【雲収(おさま)って山骨露(あら)わなり】という語があるが、満目(まんもく)の青山緑水はそこに見られるがままに如是(にょぜ)のすがたを現成しているが、こちらの方に迷(まよい)の雲があるためにその真実相が眼に入らなかった。
その雲が消えれば、自他不二となって元来そこにある尽大地(じんだいち)の命が蘇生する。
 そこで後生(ごしょう)大事にしていた自己の殻や相対の知見は打破され、天地と我と同根・万物と我と一体なりと悟り、五尺の形骸(けいがい)に埋っていた自己が、孟子の天然浩然(こうぜん)の気に甦るのである。
 これ、あらゆる言説の相を離れた、唯一無二の真理であり、天地未だ生じない以前の本面目(ほんめんもく)である。
 六祖慧能大師は、これを「父母未生以前における本来の面目」といい、趙州従諗(しん)禅師は ゙無(む)!゙ときって放ち、白隠老漢は「隻手音声」といった。
表現は変っても、ものそのものは一である。
 『和讃』では「直(じき)に」自性(じしょう)を証(しょう)すという。
そこにはゴテゴテしたものは少しもない。
即今即是、ぢかずけにこの生身で証するのである。
 次に叉「自性即ち無性」という。
 そこには我(が)他(た)彼此(ぴし)はない。



 心中に之乎(しこ)者也(しゃや)があり、何かチョッとした一物(いちもつ)でも蔵(ぞう)していたら、あたら真理にきずがつく。
折角のご馳走が鼠糞(きゅうふん)にて汚されることとなる。
 そこにコッチリした自己はない、空である。
 しかし無性(むしょう)とか空といっても、何もないということではない。
何もないというのは頭で考えられた空で、頑空(がんくう)である。真実の空は、即是(そくぜ)に色である。
色即是空・空即是色である。
つまり森羅万象ありとしあるものの、そのままのすがたにおいて空であり、一一が本来の知恵徳相をそなえて、見事に法界(ほっかい)を荘厳している。
柳は緑、花は紅いで、男あり女あり、利巧もおり馬鹿もおる、美しい者も醜い者もいる、という千差万別のすがたそれが、そのまま一味平等(いちみびょうどう)である。
 ここのところは、何としても説きえずで、言語同断 心行所滅(ご
んごどうだん しんぎょうしょめつ)というほかはない。
この如(にょ)ばかりは、如何なる理論も届かない。
五千四十余巻の経巻(きょうかん)といえども、畢竟(ひっきょう
は一字不説である。
だから有神論も無神論も、見性しない限り戯論(けろん)である。
だから「すでに戯論(けろん)を離れたり」といったのである。
 
(白隠禅師坐禅和讃新講―白田劫石 述 「第3段(1)辱(かたじけな)くもこの法を ー人間禅叢書第6編 文責 東海禅会IT担当 田中宗晃)
 
 
 
 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (65)

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://nagoya.ningenzen.jp/modules/d3blog/tb.php/939