ブログ - 一切衆生悉有仏性
一切衆生悉有(しつう)仏性
柳緑花紅
「柳は緑 花は紅」、これは古来最も人口に膾炙(かいしゃ)した禅語であり、それだけにまた、よく茶掛として揮毫(きごう)される句である。
だが、眼前に見るあるがままの事相を述べたにすぎないこの句を、そのように珍重するのはなぜであろうか。
それは、いうまでもなく、この句が大乗仏教の真理・禅の深い宗旨を含蓄し、それを説くのに適切な美しい句だからである。
では、この句はその裏にいかなる真理・宗旨を含んでいるのであろうか。
人間はもとより禽獣(きんじゅう)蟲魚(ちゅうぎょ)ないし草木瓦礫(がれき)に到るまで、一切の存在はみな宇宙の大生命、仏教のいわゆる如(にょ、真実のすがた)・儒教のいわゆる天命の発露であり、それぞれに仏性ないし法性(ほっしょう:人間以外のものに宿る仏性をとくに法性という)を円満に具有している、換言すれば「一切衆生悉有(しつう)仏性」だとは、釈迦の悟りの神髄であり、大乗仏教の根本の教理である。
河北柳苗基地HPより
この根本の教理に立ち、仏性ないし法性という本体からみると、人間も万物も、みな同じ宇宙の大生命の発露したもの、仏性ないし法性の体現者として一味平等であり、等しく尊厳な存在である。
しかし他面、具体的に存在する形相や性能・作用から眺めると、人間は人間であり、禽獣は禽獣であってちがいがあり、同じ人間でも男女・老幼・賢愚・美醜の差別が歴然としてあり、万物もまた大小・長短・曲直・黒白と千差万別である。このように一味平等でありながら差別歴然、差別歴然でありながらまた一味平等、換言すれば平等即差別、差別即平等、これが円満で具体的な真理である。平等だけを主張して差別を無視するのも、また逆に差別だけを強調して平等を認めないのも、ともに楯の両面を見ない偏(かたよ)った抽象的な見方・考え方である。
(芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より)