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ブログ - 禅者・芭蕉(六)松のことは松に習え

禅者・芭蕉(六)松のことは松に習え

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2019/9/19 3:17


(2)松のことは松に習え

 

 これは土芳の『三冊子』に見える。

[松のことは松に習え、竹のことは竹に習えと師の言葉のありしも、私意を離れよということなり。

この「習え」というところを己がままにとりて、ついに習わざるなり。

習えというは、物に入りて、その微の顕れて、情感ずる句となるところなり。

たとえ物あらわに言い出でても、その物より自然に出ずる情にあらざれば、物と我二つになりて、その情、誠に至

らず。

私意のなす作為なり]と。

「松のことは松に」の言葉は易しいが、極めて深い芸術理論でもある。

が、今はそれに深入りせず、「私意を離れよ」というところに注目してみよう。

禅の立場に立てば、これは「俺が俺がという我慢我執を離れよ」ということである。

換言すれば、「迷妄の自我を殺して、天地と我と同根・万物と我と一体、つまり大自然の命と一如になれ」ということで、これも亦見性の世界の消息である。

更に言えば、松には松の姿、竹には竹の色、梅には梅の香りがある。こうした事々無礙の華厳

蔵世界にまで徹底すること、これこそが芭蕉の説いた「風雅の誠を責める」ことではないかと考える。

 

 


現代書家(ニコニコ百科より)

 

芭蕉と愛弟子丈草との話が『僧宝伝』にある。

[一日(芭蕉)幻住庵に在り。

(幻住庵入庵は元禄3年 1690)門人丈草と俳諧を

話す。

正秀(近江の連衆)傍に在って之を聞く。

一も其の意を解すること能わず。

正秀後に其の話を挙して丈草に問う。

草曰く、我が翁に問う所は、語言の俳諧に

非ずして禅の俳諧也。

秀曰く、什麼 をか禅の俳諧と謂う? 草曰く、青山は唯青 山、白雲は自ずから白雲。

芭蕉は実に達磨の髄を得たりと。]

この丈草の「達磨の髄を得たり」は、達磨と二祖の伝法の場を踏まえていると思われるが、そこまで言わずとも、青山は青山、白雲は白雲、姿も はたらきも全く 別の個性を持ちながら、それぞれが独立独歩で、しかも相調和している、この言語道断の世界に参入するためには、松のことは松に習い、竹のことは竹に習うしか方法はないのである。

 芭蕉のこうした一見何ともない教えが、すんなりと弟子たちに理解されたとは、とても思えない。その底には、深い禅の境涯が隠されているからである。

(井本光蓮「禅者・松尾芭蕉」より)

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