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ブログ - 通願としての四句の誓願、 在家の禅「勝鬘経の世界」㉘

通願としての四句の誓願、 在家の禅「勝鬘経の世界」㉘

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/12/2 10:46
通願としての四句の誓願、 在家の禅「勝鬘経の世界」
 自(己)・他(人、物)不二の法をしっかり踏まえていれば、すべてに共通する通願と個々の別願と相反することはありません。
 いうなれば通願を成就するためには、各自それぞれに別願をもつわけです。
 ところが、昨今の社会を評して「総論賛成・各論反対」の世の中だといわれて久しいのですが、たとえば「人類のしあわせのために」といえば誰も反対するものがないように、総論においては現代社会あげて一致賛成なのですが、さてそれをどうやり遂げるかとなれば、ああでもない、こうでもないとハチの巣をつついたように結論に至らない。
 つまり各論,そのノウハウということになるとそれぞれの利害得失、党利党略が対立して、一致するところがない有様です。
 基本的に通願(総論)と別願(各論)が不二・一如の関係にあれば、いくら議論があっても、自ら一致点が見いだせるはずです。
 これに反して他と我とを二元的・対立的に捉え、自己の利害を主張していたのでは総論は総論、各論は各論ということになって円満には解決しなくなります。
 さて、本論に返りまして、仏教で願とはなにか?
 といいますと、仏道を修め、仏道を実践することです。
 この願を天台大師は分けて総願と別願との二つがあるとしておられるのです。
 仏道が何か抹香臭いように思われるなら、人としての道を修め、人としての道を実践することと、言い換えても一向にかまいません。
 これが人としての願、願いであり、人間としての理想でなければならないものと思います。
 もちろん人間といっても、西洋哲学的に大自然の中から人間を抽出して他のものと人間を対立させるべきではありません。
自然即人、人即自然としての人の行うべき道です。
それはまた自己即他・他即自己としての自己の踏み行うべき道です。

従って通願と別願とが背反する悩みはありません。

では仏教で通願というのは何かといいますと、仏教を成就しようとするものなら、誰しも必ず立てなければならない願です。

それは仏教の目標である一切の衆生を救おうというものです。

この通願は弘誓(ぐぜい)ともいい四弘(しぐ、しく)の誓願はその代表的なものです。

衆生無辺誓願度 (衆生は無辺なり誓って度せんことを願う)

煩悩無尽誓願断 (煩悩は無尽なり誓って断ぜんことを願う)

法門無量誓願学 (法門は無量なり誓って学ばんことを願う)

仏道無上誓願城 (仏道は無上なり誓って成ぜんことを願う)

これが四句の誓願です。

別願というのは、たとえば弥陀の四十八願、普賢の十願などというのがそれです。

菩薩がたにはそれぞれの特色があって、衆生済度という通願を成就するために、それぞれの別願をもっています。

このため菩薩の別願は、その菩薩の特色をあらわすものとされています。

しかし別願はなにも菩薩方に限ったことではありません。

仏道(禅)修行者が仏道(禅道)修行成就するために、通願の外に別願を立てるのは一向にさしつかえないわけです。

以上願について一通りお話ししましたが、さて勝鬘夫人はどのような願を立てたかと言いますと、それは三大願というものです。

(小野円照著「勝鬘夫人の告白」より)
(
いずれも洛陽郊外、天台山ー浙江省)ウィキぺディアより

注)

天台大師(智顗)智者大師ともいう、大同4年(538年)-開皇17年(598年)、中国の南北朝時代から隋にかけての僧。天台教学の大成者、天台宗の開祖、慧文、慧思に次いで第三祖(龍樹を開祖として慧文を第二祖、慧思を第三祖、智顗を第四祖とする場合もある)。

光大2年(568年)から7年間、金陵の瓦官寺で「法華経」や「大智度論」を講義。

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