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ブログ - 麦飯にやつるゝ恋か猫の妻,禅者芭蕉読本㉙

麦飯にやつるゝ恋か猫の妻,禅者芭蕉読本㉙

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/9/23 12:53

延宝四年(1676)、6月20日桃青(芭蕉)は伊賀上野に二度目の帰郷(最初は2年前)をし、7月2日まで滞在して、桃印を同伴して江戸にもどった、と芭蕉総合年表に記載されている。

この二度目の帰郷の第一の目的は家族的係累の処置ではなかったのか?との説を著書「芭蕉」で穎原退蔵氏は挙げておられる。

一度青雲の志に望みを絶って、俳諧師として立つ決心をした宗房時代の桃青(芭蕉)であったが、それは直ちに世間的な生活をすべて捨て去ってしまうようなことは周囲の事情がゆるさなかった。

寛文二年春、29歳で初めて江戸に下った際、故郷伊賀上野の兄のもとに残しておいてきた係累―壽貞とその子供は彼のもとへ迎えられることをのぞんでいたであろうと推察される。

そのため、世間的に職業や地位を得て、その責任を果たさなければならなくなっていた。

当時の俳諧人並みに万句興行なども催し、宗匠として立机もしなければならなかった。

江戸で盛んにおこなわれていた水道工事などの俗務にも携わり、幕府の小吏に伍して雑務に従事するのは、もとより芭蕉の本意ではなかったのでは?

文芸人として、此の一筋の繋がるべき道について省みて、また、先達たる古人、西行、宗祇達へのあこがれに燃え上がる自身を想うとき、世間的生活のすべてが次第に堪えがたいものとなっていた。

水道工事の完成を期に、すべての俗務も断ち、ついに愛すべき係累とも別れ、37歳(延宝八年)の冬、独りさみしく深川の草庵に入った。

延宝9年6月、猛烈台風が襲来する、本所、深川など江戸は被災し死者七百名、両国橋が半壊する、そんなこともあってか、9月には元号が天和に改元される。

延宝末年のこの時期に至り、芭蕉の排風が一変する兆しが見られるようになる。と穎原氏は指摘する。


群馬県前橋市三河 正幸寺境内の句碑(牛久市森田武さん提供)
『諸国翁墳記』に「里塚 上野前橋正幸寺ニアリ 喝祖坊素輪建立 麥めしにやつるゝ戀や里の猫」とある。(高野義則さん提供)

信州の上田市丸子の龍洞山宝蔵寺にも、流浪の景清が一時住んでいたという伝説がある。
崖に建つ宝蔵寺から浅間山を望む(2010)


しかし、俳諧自体はなお談林派の余臭の中にあり、低迷していた。のみならず、後に俳諧の文芸精神が和歌や連歌の伝統のもとに確立された暁でも、俳諧が発生した当時からもっていた喜劇性は俳諧の特質として所持していた。
蕉風俳諧の特質である、庶民的な生活様式に根ざす卑近通俗さの中に、「あはれや幽玄」に通ずる新しい文芸美を見出したことは、貞門・談林派の俳諧がもっていた「をかしみ」の内面的拡充、もしくは深化であった。
俳諧が和歌・連歌と対立する本質的なものである「通俗性」は、たぶんに「をかしみ」であろうとされている。
当時の一般の文芸意識としても、俳諧は喜劇性をもつものとされていたが、芭蕉自身もこの特性は否定するものではなかった。
景清も花見の座には七兵衛
※1)
 麦飯にやつるゝ恋か猫の妻
※2)
 ※1)めっぽう強い平家の武将平景清はその名も悪七兵衛。しかし、花見の時には悪の字が取れて七兵衛になるのだろう。
さあ、みなさん無礼講で花見と行こうじゃないか。
※2)鄙びた田舎の雌猫が主人公。普段麦飯しか食べさせてもらえないのでやつれているのだが、恋の季節ともなると食欲を失ってなお一層やつれてしまう。
やつれていても恋をする猫のけなげさを冷やかしている。
 
(みえ四日市禅会俳句部)
 

 

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