メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2018 9月 » »
26 27 28 29 30 31 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 1 2 3 4 5 6
カテゴリ一覧

ブログ - 二祖の断臂と雲門の折脚を思うべし 勉旃勉旃(べんせんべんせん)。

二祖の断臂と雲門の折脚を思うべし 勉旃勉旃(べんせんべんせん)。

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/9/2 8:01

  謂つべし、これを心に得、これを手に応ずれば、便ち能く大地を変じて黄金となし、長河を撹して酥酪となすと。豈平生を暢快にせざらんや。
 

5段目は修行した結果 開ける世界を表しています。

その開けた世界というものは、このような世界なのであると。 

もしこれを得ることができたなら、見性すれば世の中が一変する。

それはあらゆる大地がすべて、最高の価値のある黄金になってしまうようなものだ。

あの揚子江のような大きな川をちょっと掻き回すと、見たこともない食べたこともないおいしいチーズのような乳製品になってしまうようなものである。これはたとえであって、そのような精神の革命が起こる、ということを言っているのです。

つまり、本当の見性がいけて、それを日常に使うことができれば、精神的な革命が起こったように、日常生活が愕然と変わるのです。

本当の個性が生き生きと出てくるし、どんな社会的な場にいても自信に満ちた生活をすることができ、正しく楽しく仲の良い日送りをすることができるようになる。
 禅というものはあらゆる精神的な悩みを根本的に解決するものです。
ぼんやりした不安を解消するなんてことに留まらず、どんな絶望的な状態でも自分の持てる力を最大限に発揮して、世のため人のために力になることができる。

公案を手がかりにして正脈の師家に参禅し続ければ誰でも禅の真理に到達することができる。

見性すれば素晴らしい世界が開ける。

しかし一端の見性ではだめで、更に深めていかなくてはならない。

3年、5年、10年、30年、死ぬまで。

修行を続けておれば90才になっても100才になっても人間形成の向上は必ず進み深まるのです。

死ぬまで向上し続けるのが、正常な人間の生き様なのであり、本当に人生を楽しく味わうということができるのです。

本文から外れますが、11炷香の重要性について付言しておきます。

われわれは専門僧堂で生活しているわけではない。

摂心会がない時は、自分の日常生活の中で工夫をしなければならない。

毎日意欲を持って数息観の質を向上していかなければならない。

修行向上のために有効なのが数息観評点記録です。



両忘老大師筆「葦葉の達磨」

 
 

  只管冊子上に言を念じ、禅を訪ぬること莫れ。

禅道は冊子上にあらず。

古徳許多の艱難を喫して方に此の道を得たり。

我 豈独り然らざらんや。

宜しく二祖の断臂と雲門の折脚を思うべし。

勉旃勉旃(べんせんべんせん)。

 

本を読んでも禅はわからない。

「禅道は冊子上にあらず」というわけです。

禅は知性ではなく感性ですから、相対樹から行によって絶対樹に移らなければ、人間形成の禅に入って行けない。

古人は様々な艱難を乗り越えて道を完成させて来られた。

宗活老師だって耕雲庵老師だって例外ではない。

頭燃を救うがごとき修行を継続されたからです。

古来禅家では志と精進努力の好模範として「二祖の断臂と雲門の折脚」を挙げています。

「二祖の断臂」とは二祖慧可大師が達磨大師に入門を願い出たときに臂を断ってその意志を示したということ、「雲門の折脚」とは雲門文偃大師が若いころ道を求めて何回も何回も入門をお願いしたが門内に入れてくれなかった。

あるときやっと門を開けてくれたがすぐに門扉を閉めようとしたので、咄嗟に片足を門内に入れたから大きな扉に挟まり足の骨が折れたという故事である。精進努力することを「骨を折る」というのはここから来ている。

「勉旃勉旃」努力せよ、努力せよというわけです。

頭の善し悪しでも社会的な地位でも何でもない、志を強く持ち続けて頭燃を救うがごとき努力を継続することだけが大成する必要条件であります。

第一回 平成2927日 東京支部摂心会 仰月庵呼龍老師提唱 
第二回 平成3077日 青年部夏期摂心会 葆光庵春潭老師提唱
(人間禅青年部提供)



 

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (21)

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://nagoya.ningenzen.jp/modules/d3blog/tb.php/1436