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ブログ -  参禅を要すや、須らく放下着すべし。

 参禅を要すや、須らく放下着すべし。

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/9/1 19:19

 諸大徳 参禅を要すや、須らく放下着すべし。

箇の何をか放下せん? 箇の四大五蘊を放下し、無量劫来の業識を放下し、自己脚踉下に向かって推し窮め看よ。

これ何の道理ぞと。


三段目は修行というものの進め方の基本を説明しているのです。

修行者よ、参禅が何よりも肝心であるよ!その為には全てのものを捨てなければ成らないよ!と。(参禅を要すや、の「や」は、疑問ではなく強調の助詞)

そして、何を捨てるのか?四大五蘊を捨て、無量劫来の業識を捨て、自分の足元に向かって究め看よ、と。

この看よ!が、着目すべき点であり、「見よ」ではいけないのです。

「看る」とは、相対的に公案を考えるのではなく三昧になって公案と一体になれと云うことです。これ何の道理ぞ?も、考えるのではなくあくまで次に出てくる工夫を示しているのです。

四大というのは地水火風という肉体を構成する要素、五蘊とは五蘊階空の五蘊、色受想行識であり、四大五蘊で人間を指している。

つまり、肉体的精神的働きを一時棚上げにして、自分自身を対象化せず、自分自身の存在の根底を内に向かって探せ、ということなのです。

それは一体どういうものかと。

しかも考えるのではなくて三昧になって究めろ、と。


 
両忘庵釈宗括老師の書画(人間禅蔵)

 功夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし。精神を奮起し、片時も放遅すること莫れ。無理会の処に向かって究め来たり究め去り、究め究めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照らさん。
 

4段目は、修行のやり方工夫の仕方、修行するときの精神の持ち様を示し、このやり方に従えば必ず見性することがでると云っています。
功夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし】と、両忘老師が声を大にして叫ばれているのです。公案の功夫(工夫)は、頭に火が付いたとき思わず何はさておいても急いで消すように徹底して実行するように工夫せよ!と。

そしてあらゆるものに優先して精神を集中し、片時も放置するなと。(これは日常の数息観においても同じで、頭燃を救うがごとくでないと数息観は深まりません。)

【無理会(むりえ)の処に向かって究め来たり究(きわ)め去り、究め究めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照らさん】公案工夫の仕方であってまことにその通りであり、実に的確な表現です。

これが先ほど云ったことですが、相対樹ではなく絶対樹で工夫することを言っているのです。

頭頂葉(いわゆる頭)で考えるのではなく前頭葉を活性にして、すなわち三昧になって精神を奮起して全精神を集中して究め求めるのです。

これが禅の工夫の要点です。

【無理会の処】つまり知性的には理解できないところが公案の工夫の場です。無理会の処に向かって三昧になっていく。

「本来の面目とは何か何か何か・・・・」これを、頭燃を救うが如く急切にやれと。それをずーーっと続けて続けて続けていく。
 

そうすると自然に機に触れて、【即ち心華発明して十方刹を照らさん】となる。心華発明とは、心の華が開くということ、見性するということです。

十方刹とは、あらゆる方向ということです。

つまり、見性がいけて自己の絶対性が分かるということです。

公案【無理会の処】にずーっとずーーっと迫っていけば、必ずそういう時期が来る。

見性すると云うことも今自分はどの程度なのかも考えてはいけない。

あらゆる念慮を捨て去る。

その集中を切らさない。

そこが難しく最も重要なところです。

公案の工夫は公案三昧にひたすら浸るということです。

三昧に浸る時間が必要です。

だから摂心会というものがあって、日常の生活から遮断された時間に身を置くことができる。

参禅の時だけ道場に来てでの修行ばかりでは、禅学は進んでも人間形成は進みません。

摂心会期間中は道場に寝泊まりして就寝前後も三昧に浸る時間を持つことが大切なのです。
 

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