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ブログ - 迷いの原因は?在家の禅、勝鬘経の世界㉗「

迷いの原因は?在家の禅、勝鬘経の世界㉗「

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ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/6/27 22:33
迷いの原因は?在家の禅、勝鬘経の世界㉗

九.世尊、我れ今日より乃(いま)し菩提に至るまで若し捕(ほ)と養(よう)との諸(もろもろ)の悪律儀(あくりちぎ)のものと、及び諸(もろもろ) の犯戒の物とを見れば、終に棄捨(きしゃ)せずして、我れ力を得ん時、彼々(ひひ)の処に於て、此の衆生を見ては、応(まさ)に折伏(しゃくぶく)すべき者は之を折伏し、応(まさ)に摂受(せつじゅ)すべき者は之を摂受せん。

何を以っての故に、折伏と摂受とを以っての故に、法をして久しく住せしむ。

法久しく住すれば、天人充満し、悪道減少して、能く如来所転の法輪に於いて、而も随転することを得ん。

此の利を見るが故に救摂(きゅうせつ)して捨てず。」(7.利他のための誓願、第九受)
 

仏教では古来より「心外に法を求むる、これを外道という」と教えています。

「外に求むる」とはどういうことなのか?「真の自分、真の自己とは?」このような大問題を省みることなく、「他(人)がどうのこうの」と問題にしたり、あるいは「神や仏を(心)外に求めている」、

これが九受でいう「捕」です。

 そんなことをしていたのでは、何時までたっても苦の根源を抜き取ることは出来ません。

なぜならそれこそ悪律義だからです。

 そうかといって、何かの主義や主張を心内に蓄えていたり、あるいは迷いや悟りをもっていたのでは、前述の無珪礙(むけいげ)の境地に達することはできません。

 どんなものにせよ、内心にこれこそ極則というものをもって、それに執着していれば、それはつまり「」です。

 迷いというものはたいていこの二つのどちらかに原因するもので、外に求めても真理に反し、内に蓄えても真理に反するもので、そのどちらもが悪律義(非真理)です。

 またさまざまの過ちを犯すもとになるもので、そういう人を見れば彼々(ひひ)の処においてこれを折伏(しゃくふく)したり、摂受(しょうじゅ)したりしなければならない、といわれているのがこの九受です。

(小野円照著「勝鬘夫人の告白」より)

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