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ブログ - 一所不住(仏頂禅師と芭蕉)

一所不住(仏頂禅師と芭蕉)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/6/5 10:38
深川芭蕉庵(二)臨川庵で参禅、禅者芭蕉読本㉔
 
鹿島根本寺の住職であった仏頂和尚は深川臨川庵に住して、足掛け9年に及ぶ鹿島神宮との訴訟を闘っていた。
芭蕉と仏頂和尚の出会いは定かではないが、芭蕉庵と臨川庵(後の臨川寺)は小名木川を挟んですぐ近くにあり、芭蕉は仏頂禅師に参禅しながら、和尚と俳諧や和歌問答のようなやり取りや、和尚からは漢詩、漢学などを学んでいたようで、後に「奥の細道」で、仏頂和尚の歌も紹介している。

「縦横の五尺に足らぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」、(厳しい)修行の身には草の庵さえ必要ない、という。

仏頂和尚は鹿島の根本寺が徳川家康から神社の100石の所領をいただいていたが、それが神社に戻されていることを訴えて出て、九年後勝訴すると、潔く住職を辞して隠居し、以後行脚の生活に戻ったりしているのを見て、和尚の粘り強い交渉態度や引き際の潔さに感銘を受けたようで、後に深川の庵を売り払い、「一所不住」「無住無庵」の生活に徹することになる。



鹿島・根本寺

 
一方、深川隠棲の芭蕉(当時37歳)は、二度目の出府の際同伴してきた甥の桃印らとその後同居していたらしいが、深川に来て、桃印には去られ、内縁の寿貞(後の寿貞尼)には逃げられ、蕉門は解体し、町内の名主でもあった小沢卜尺(小沢太郎兵衛)より紹介された日本橋の「書き役」の仕事も失ってしまった。
不義密通、郷里伊賀上野、兄が当主の松尾家(父は柘植出身の苗字帯刀を許された農民で、主家の厨房役であった)との関係、出家(主家藤堂家の小姓役を退き、僧籍に入る?)・社会的名声の喪失、蕉門の壊滅、経済的困窮。いつの時代でもありがちな破滅のパターンを地でいっている。

芭蕉はこの苦境をどう生き抜けるのか。
 芭蕉は 貧困と孤独のうちに苦悩し呻吟していた。


さらに、貞門・談林風と続いてきた俳諧に対して、杜甫や白楽天などの漢詩の影響を受けて、独自の俳境を生み出そうと苦闘していた。新しい俳諧への志のみが芭蕉を生きながらえさせていた。
とみる説がある。その根拠は次の「笈の小文」の一節である。

ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時は進んで人に勝たむ事を誇り、是非胸中にたたこふうて是が為に身安からず。暫(しばら)く身を立てむ事を願へども、これが為にさへられ、暫く学んで愚を暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、つひに無能無芸にして只(ただ)此の一筋に繋(つなが)る。


(みえ四日市禅会俳句部)
参考資料、竹人「全伝」、竹二房「芭蕉翁正伝」、穎原退蔵「芭蕉」、、「芭蕉総合年表」、フリー百科事典
関口芭蕉庵HP

 
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