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ブログ - 柴の戸に茶をこの葉かく嵐哉、禅者芭蕉読本㉓

柴の戸に茶をこの葉かく嵐哉、禅者芭蕉読本㉓

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/6/3 14:49

深川芭蕉庵、禅者芭蕉読本㉓


二度目の江戸東下後に請け負った神田上水の改修工事の際、1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが現東京都文京区関口・関口芭蕉庵であった。

延宝8年冬、市中の喧騒をさけて一人静かに落ち着ける、深川の草庵(現江東区常磐町1丁目、芭蕉稲荷内の「芭蕉庵跡地」との石碑が立つ)に入った。

草庵とは杉山杉風の生洲、下屋敷と伝えられている番小屋を改造したものであった。

「続深川集」には当時の宗房が世間的な生活を清算して、貧にあまんじつつ、俳諧に打ち込もうとする決意がうかがわれる。

  九年(ここのとせ)の春秋市中に住みわびて、居を 深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難しといひけむ人のかしこく覚え侍るは、この乏しき故にや,
 

  柴の戸に茶をこの葉かく嵐哉     (続深川集)
 


二度目の江戸に入った後請け負った神田上水の改修工事に携わった際に芭蕉が住んだ竜隠庵と呼ばれた水番屋の前の神田川。このすぐ下流に江戸上水との分岐・水取口 があり、そこの浚渫工事を請け負っていた。下)手前が小名木川、向こうが墨田川、左、東京湾、合流点の右が、江東区常盤1丁目、芭蕉稲荷内が芭蕉庵跡地?                                     
(「関口芭蕉庵」HPより)


宗房が伊賀から江戸に出てきて、9年。隅田川と小名木川の合流点に近い深川の草庵は「泊船堂」と名づけられていた。江戸市中から深川に詫び住まいした様子をこの句は詠んでいる。
 日本橋あたりの生活にも飽きて、居を深川に移した。「長安の都は昔から、名声と利欲に狂奔している街、お金のない者には住みにくく生きていくのも難しい」と白楽天がいったがもっともなことである。そう感じてしまうのは私が貧乏なためであろうか。
 木枯らしの風が烈しく吹きすさび、落ち葉を庭の片隅に掻き寄せている。その落ち葉を集めて焚き火をし、茶を煮て侘しい草庵ですすっている。

 

 さらに「続深川集」には、翌延宝九年の春、門人李下より送られた芭蕉一本を庭に植えた、
 

 ばせを植ゑてまずにくむ萩の二葉哉
 

(庵の庭に植えてみるとさっそく根元に荻が芽を吹いた。バショウの肥しを盗られてしまうかと思うと憎らしくなる)と記している。元禄五年の作、三日月日記所収の「芭蕉を移す詞」には、「この芭蕉は風土に適ったのか、次第に茎を増し葉を重ねて庭を狭めるほどになった。いつともなく人びとがここを芭蕉庵と呼ぶようになった。庵の主もおのずから芭蕉庵の翁・芭蕉翁などと呼びならわし、芭蕉(宗房)自身も以後これを俳号とするに至った。

芭蕉庵に入ってからの芭蕉の生活は、俳諧がそのすべてといってよかった。

このときはじめてある種安住の地を得た思いで、入庵後の俳諧生活をしのばせる最初の句作が、延宝九年(天和元年)六月言水刊行の「東日記」にある。
(みえ四日市禅会俳句部)


参考資料、竹人「全伝」、竹二房「芭蕉翁正伝」、穎原退蔵「芭蕉」、、「芭蕉総合年表」、「関口芭蕉庵HP]、フリー百科事典

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