メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2018 9月 » »
26 27 28 29 30 31 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 1 2 3 4 5 6
カテゴリ一覧

ブログ - 宗教的自覚とは?・在家の禅「勝鬘経の世界」㉒ 

宗教的自覚とは?・在家の禅「勝鬘経の世界」㉒ 

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/3/6 13:53
宗教的自覚とは?・在家の禅「勝鬘経の世界」㉒

 財物を蓄積することは決して悪い事ではなく、むしろ大切
な善行です。
宗教は欲を捨てる教えのように誤解している人が多く、無欲になるのが宗教で、財物を蓄積するのは宗教の教えに反するかのように錯覚している人が意外に多いようです。
しかし慾を失くそうとすることは消極的で、むしろ社会生活に反していることで、それを徹底させていけば社会は破滅し、人間は生存できなくなります。
もっともこんな誤解を与えるのは理由のあることです。
キリスト教では中世期において、禁欲こそ最も崇高な生活とされ、欲を捨てた修道院の生活が理想とみられたこともあります。
仏教において小乗仏教では欲望を断っていくことが仏道修行のようにいわれました。
しかしキリスト教国では宗教改革によって、低い次元で堅苦しく考えていた欲望を高い次元に昇華し、欲望を正しく合理化しました。
これによって利潤を追求する経済活動も悪行ではなく、利潤をあげて財貨を蓄積し、さらに活発な経済活動をするべきだということになったのです。
唯一つここで大切なことは、なんのために利潤をあげ、財貨を蓄積するかということです。
キリスト教では、それは神の国をこの世に築くためにするもので、財貨の蓄積は己れのためにするものではなく、社会の為にするものであったのです。
この理念が貫かれていたからこそ、自由主義経済の下でも弊害を除去して、資本主義を発展させることができたのです。
しかし自由経済が発展し、財貨の蓄積が大きくなり、しかも大きな財貨が少数の人によって動かされるようになると、その力を持っている大企業には、それだけ力強い宗教的利他心がなければならないことはいうまでもありません。
でないと強力な力を誤って用いて、大きな弊害を引き起こして自由主義の破たんを招きます。
仏教においては、既に二千年以上も前からこの思想を貫いて、教えとしてきているのです。



耕雲庵立田英山老師書「喬木を下りて幽谷に入る」


勝鬘夫人が経中で誓っておられるのも、衆生の為に財貨を蓄積しようと云われるのです、財貨そのものを罪悪視しているのではないのです。
ところが日本では、自由主義経済を導入して以来、財貨の蓄積は西洋の先進国に追いつき追い越せとばかり、経済大国といわれるようになったものの、財貨に対するキリスト教の理念にも徹せず、古来から布教されている大乗仏教の精神にも学ぼうとせず、経済大国になることばかりを急いだために、西洋諸国から経済アニマルと呼ばれ、現在でも大企業優先の成果主義の政治経済がまかり通っている所以で、この点大いに反省すべきですが、そんなことはわかっている。
だからこそ福祉の重要性を説き、企業倫理について反省していると云われるかもしれない。
しかしそれは単なる止悪・作善の小乗の教えとわかっていても、実践し難いのと同様に、いやそれ以上に実践しがたいのです。
口先でいうだけなら誰でもいえるのですが、自利の教えでさえ実行が困難なら、まして利他を行ずるという段になれば反省しているとか、頭の中で知っているくらいではでは到底駄目であるというものです。
ここはどうしても宗教的自覚、禅でいうところの直観による転回がなければならないところです。
勝鬘夫人のように、身を以て仏道を修行してこそ、言うが如くに実践できるのです。
(小野円照著「勝鬘夫人の告白」より)


 

 「宗教改革、とルター」1517年にドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授であるマルティン・ルターが「九十五カ条の論題」を発表したことから宗教改革は始まる。


 (ウィキペディアより)

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (120)

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://nagoya.ningenzen.jp/modules/d3blog/tb.php/1278