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ブログ - 自己の根源を把握する道、白隠禅師坐禅和讚新講㉖おくがき(白田劫石述)

自己の根源を把握する道、白隠禅師坐禅和讚新講㉖おくがき(白田劫石述)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2017/11/13 13:02

 
おくがき

 さて以上、白隠禅師の『坐禅和讃』に即して坐禅の効用を述べてきたが、これはとにかく実践によって得なければ画餅にすぎない。
 禅の修行は、一にも二にも三にも実行であり、何よりも坐禅の実修である。
この点で新到の旧参のという区別はない。
古人もだから「われ二十年禅を学んで初めて羞を識れり」といい、又「仏祖も今に修行最中」と白状している。
 道元禅師の宗風の一つに
只管(すかん)打坐(たざ)を打出した「修証一如」というのがある。
これは、修がそのまま証であり、証が修であって、修を離れて証はないというものである。
 これは、到りえた境涯としては立派なものであるが、道眼の開かれていないものには、その宗旨の味はのみこめまい。だからこれは、先ず証というものを修から截断して正しく把握した後の工夫とすべきである。
 しかし逆に、証のみを目的とし坐禅の修というものを軽視するのは、真実の修行ではない。
 悟りを得ることが大事であるとしても、大悟徹底した者が大機大用を行じる上において、山を下りて初心者と同じに坐禅を修するということは、又大いに仔細(しさい)のあることである。




白隠禅師自画像(松陰寺蔵)

禅の修行を志す者は誰でも、自らの坐禅を、初祖大師が少林寺において面壁九年を行じた先蹤の鏡に照してよくよく省すべきである。
 さてここで坐禅の実修について、初めて志をおこした方に、実際の坐禅の心掛けを述べておきたいが、その詳細は付録にある『坐禅儀』について工夫してもらうこととし、ここでは、それを読むための心の準備といったものを老婆心ながら書きとどめよう。
 その第一は、坐禅の目的である。坐禅をしょうと
する人の目的は人によって千差万別であり、多くの、同じ人でも時と場合によって違う。
或る人は不眠症や神経衰弱をなおすために坐禅をしようとす
る。
又或る人は、いざという瀬戸際に平常心を失わず、生死の関頭にたってたじろがないように坐禅をする。
或る人は又茶道や剣道や書道その他の芸道において技が神に入ってその奥義を究めるために坐禅をする、というように、人によっていろいろその目的が違うのである。
 これらの目的は、それぞれ決して間違っているわけではないが、祖師禅という上から第一義的にみると、それらが究極において、道というものに結びつき、道に裏付けられ、道に対する志から発するということにならなければほんとうのものになるとはいえないのである。
 そうでない場合には、坐禅は自分が生きるための方便であり技術であって、根本の人間の生そのものの
真理(・・)を明らかにし、自己の根源を把握する道とはなりえない。
 つまり、真の坐禅の修行というものは、自己その
ものを根源にさかのぼって照明し、その本来の面目を明らかにし、心底から納得できるほんとうの生き甲斐をかみしめ、人間として生きることのよろこびにみたされて正しく・楽しく・仲のよい世界楽土を建設してゆくための道である。
 だからそのような根源的な意味を含まない坐禅は、たしかに一つの修養にはちがいないが、結局は一時の情緒的な満足を出でないのである。
(白隠禅師坐禅和讃新講、おくがき―白田劫石 述 人間禅叢書第6編
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