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ブログ - 江戸蕉門・宝井其角、禅者芭蕉読本⑯

江戸蕉門・宝井其角、禅者芭蕉読本⑯

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2017/11/1 15:07

江戸蕉門・宝井其角、禅者芭蕉読本

 芭蕉総合年表によると、延宝3年(1675年)宗房(芭蕉)が31歳で二度目の江戸滞在中に杉風、其角、嵐蘭が芭蕉に入門。とある。この三人がもとになって江戸蕉門のグループが誕生したといわれている。

 今回はその一人、榎本(宝井)其角。日本歴史大辞典によると。

其角(16611707)

江戸中期の俳諧師。榎本、後に宝井氏。父東順は医師竹下氏。15歳ころ、芭蕉の最も早い門人の一人となった。師の隠逸趣味を側面から支持しながら、自らは市井の宗匠として終始し、大名、旗本、上層町人など多くの門人を擁して、昭和まで続いた其角堂系などの俳系の基を開いた。句風は華麗で印象鮮やかな点に特色があり、仮構と現実を自在に交錯させる才気に満ちている。また、電子版では;
名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。

略歴

江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。延宝年間の初めの頃、父親の紹介で芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。はじめ、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める。
 

蕉門十哲の第一の門弟と言われている。芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾松蘐園塾を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」の句がある。

宝永4年(1707年)、永年の飲酒が祟ってか47歳で死去した。

http://nagoyazen.ningenzen.jp/uploads/ckeditor/images/20171012124757.jpg

宝井其角(国文学名家肖像集)

人物評

芭蕉とは違い、酒を好み作風は派手で、平明かつ口語調の洒落風を起こした。しかし、博覧強記の其角であるが故に、句の解釈に取り掛かろうとすれば、その中に隠された難解さに驚かされる。

 
来抄中の以下の逸話が、芭蕉による其角観を物語っている。

切られたるゆめはまことかのみのあと 其角

去來曰く「其角は誠に作者にて侍る。わずかに、のみの喰ひつきたる事、たれかかくは謂ひつくさん」。先師曰く「しかり。かれは定家の卿也。さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る、ときこへし評に似たり」。 

(現代語訳)
 

「其角は本当に巧みですね。ちょっと、ノミが喰いついただけの事を、誰がここまで言い尽くせるでしょう」と向井去来がいうと、芭蕉が応えて、「確かに。彼は藤原定家卿だよ。ちょっとしたことを、大げさに表現する(=修辞が巧みである)と評されたのに似ているね」と言った。

また、芭蕉がライバル視していた井原西鶴とも交際し、生涯に2度、西鶴を訪ねて上方に行っている。其角の逸話の一つとして、赤穂浪士討ち入り前夜、四十七士の一人・大高忠雄と会い、はなむけに「年の瀬や水の流れと 人の身は」と詠んだ。
これに対して源吾は、「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる(忠臣蔵の外伝)

(三重四日市禅会俳句部)
 

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