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ブログ - 三日月の頃より待ちし今宵哉、禅者芭蕉読本⑫

三日月の頃より待ちし今宵哉、禅者芭蕉読本⑫

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2017/10/9 15:11
宗因との出会い、禅者芭蕉読本⑫

 芭蕉総合年表によれば、宗房(芭蕉)は寛文12年(1672)春、29歳の時に江戸に下り、二年後の春、延宝2年(1674)に伊賀上野へ初の帰郷をしている。

三月には北村季吟より俳諧論書「埋木」を授与され、師弟関係が成立したのではと、推察される。

この年は各地で風水害により大凶作の記述もある。

翌年の延宝3年(32歳)、江戸来遊中の西山宗因歓迎百韻で始めて桃青の俳号を使用。同年、杉風・其角・嵐蘭が入門、江戸蕉門誕生が想定される。

この年、廣岡宗信編「千宜理記」に伊賀上野宗房名で発句6句入集。「五十番句合」(内藤露沾判)に発句2句入集。

翌延宝4年(33歳)親友山口素堂と「江戸両吟集」を出版。

同年6月、伊賀上野に二度目の帰郷。7月2日まで滞在して、桃印(甥)を同伴して江戸にもどる。

7月、花樂軒蝶々子編「当世男<いまようおとこ>」に発句3句、付け句3句入集。

12月、北村季吟編「続連珠」に松尾氏本住伊賀、号宗房桃青として6句、付け句4句入集。

延宝5年(34歳)この頃、俳諧宗匠として立机。

以後四年間、水道工事監督に従事。

秋、「芭蕉杉風両吟百韻」出版。11月、去来、父、墓参のため真如苑からの帰路、農夫を襲った猪を一刀のもとに斬殺。

閏12月、内藤風虎編「六百番俳諧発句合わせ」に松尾桃青の名で20句入集」。



「三日月の頃より待ちし今宵哉」月岡芳年「月百姿」松尾芭蕉

 

延宝6年(1678)(35歳)三月、伊藤信徳・山口素堂と三吟百韻3巻を「江戸三吟」として出版。

七月、二葉子編「江戸通り町」に歌仙一巻と付け句5句掲載。岡村不木編「江戸広小路」に発句17句、付け句20句入集。八月、池西言水編「江戸新道」に発句3句入集。

以上が寛文12年(1672)(29歳)春(2月?)に初めて江戸に下ってより、延宝6年(1678)(35歳)八月までの宗房約六ケ年の年表の記述である。

「十八番発句合」には「延宝六初冬日 坐興庵桃青」とした署名の下に、「素宣」の印が用いてあり、延宝六年十月以前に素宣と称し、二度目の江戸滞在中には、すでに出家していたことがあきらかであるとする伝記もある。

後年「ある時は佛籬祖室(ぶつりそしつー仏祖の道)のとぼそー門 に入らむ」との記述があり、江戸滞在早々、すでに出家の念が往来していた、と、している。

しかし、事実、深川大工町臨川寺の碑文から類推して、当時の深川臨川庵で仏頂禅師に参禅を開始するのは、宗房(当時37歳)が江戸市中から深川の草庵に移る延宝8年冬のことになる。

延宝3年5月、折から東下中の西山宗因を迎えて、催された俳諧の席で、宗房は桃青と名乗って出座した。  

宗房と宗因の関係は、伝えられているところでは、市村竹之丞座の芝居で初めて出会い、ある人が「子はまさりけり竹之丞」という句の上五文字を置きかねていたところ、宗因が「おや々々」、と冠してやったので、宗房が大いにその奇才を讃嘆したという。

しかし、これは文献的には確証のない話で、若い時に宗因と九州旅行をしたなども同様に、有り得ない話である。とされている。

談林派唱道者西山宗因死去は天和2年(1682)で、宗房39才、宗因享年78歳である。 
註)
西山宗因
江戸前期の連歌師・俳人、談林派の祖。諱は豊一(とよかず)俳名は一幽・西翁・梅翁など。肥後八代城主加藤正方の陪臣。連歌を里村昌琢に学び浪人して連歌師となり、後に転じて別風を興し、門下に西鶴をはじめ多数の俳人を輩出。編著「宗因連歌千句」「天満千九」など。(1605〜1682)

杉山杉風(1647〜1732)
江戸中期の俳人。芭蕉十哲の一人。通称、鯉屋市兵衛。号、採茶(さいと)庵・五雲亭・蓑翁。江戸の人。初めは談林調。芭蕉の後援者として新風開発の土台を築いた。著「常盤屋之句合」「杉風句集」など。

(三重四日市禅会俳句部)

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