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ブログ - 門前の小僧が筍を偸んでいくぞ、座禅和讃新講㉝

門前の小僧が筍を偸んでいくぞ、座禅和讃新講㉝

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2017/9/12 5:30

寂滅(じゃくめつ)現前・・・座禅和讃新講㉝
 

(この)(とき)何をか求むべき    寂滅(じゃくめつ)現前する故に

当処便(すなわ)蓮華(れんげ)国      此の身即ち仏なり
 



「此時」とはどの時であるかといえば、修行に修行を重ね、十年二十年、三十年五十年と至誠を投じて、悟後の修行に骨を折って、正念工夫不断相続をつづけ大悟徹底の境涯に到ってみれば、ということである。


つまりは見性了々底の境涯である。
 そのときはどうなるかといえば、「寂滅現前する」という。


見性入理で悟ったピンも寂滅であれば、見性悟道も寂滅であるし、室内を透過し了って聖胎長養し、市街に出て泥をかぶるのも寂滅であるが、ここでの寂滅は【到り得 帰り来たって別事なし、()
(ざん)は煙雨 (せつ)(こう)(うしお)】という、悟り了って未だ悟らざるに等しいというキリの寂滅である。
 寂滅とは、もと涅槃の訳であるが、涅槃には有余(うよ)涅槃と無余涅槃(むよねはん)とある。


その無余の方である。


『碧録』に「()()成労(じょうろう)」という一則がある。
  あるとき坊さんが、(きょう)(りん)和尚のところへ来て問うた。


“如何なるかこれ祖師西来意?“印度からわざわざ達磨大師が中国にきた()()は何か?


つまり大法そのもの、それをお示し願いたい。


これに対して香林和尚は、一言“坐久成労“とこたえた。


「えらい長いこと坐って足がつかれたわい」というのである。


これこそ骨折り損のくたびれもうけというやつである。


別にそのほか何一つ特別なことは得てはいない。


これはどうも恐れ入った。


こういうところが寂滅現前である。
 禅語に【頭を挙ぐれば残照在り、元是れ住居の西】というのがあるが、ここを云ったもので、いかなる仏も顔をしかめ、魔も驚懼(きょうく)するのほかはない。
ありがたそうな信仰や悟りは、一滴を(きょ)がくに投ずるようなものである。
そこには毛ぶらいの悟ったという差汰がない。



『文珠所説摩訶般若』の中の【清浄の行者涅槃に入らず 破戒の比丘(びく)地獄に堕(だ)せず】に対して、白隠老漢がおいた偈頌に次のものがある。
【閑蟻争い引く(せいてい)の翼、新(えん)並び(いこ)う楊柳の枝、山婦は藍(らん)を携えて寀色多く、村童は(じゅん)(たかんな)を偸(ぬす)んで疏籬(そり)を折る。】
 ここで青というのはとんぼのことであり、筍とはたけのこで、疏籬とは、垣根である。
 丁度、庵(いおり)でいい気持ちで居眠りをしている庵主をわざわざゆすり起こして、門前の小僧がたけのこを盗んでゆくぞ と、告げ知らせてやっているようすである。


 
(白隠禅師坐禅和讃新講―白田劫石 述 「第4段(1) (この)(とき)何をか求むべき 寂滅(じゃくめつ)現前する故に 


ー人間禅叢書第6編 文責 豊橋禅会IT担当 田中宗晃)
 

 

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