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宗演禅師菜根譚講話(二十六) 

飽後(ほうご)に味を思えば則(すなわ)ち濃淡の境都(すべ)て消え、色後(しきご)に淫(いん)を思えば、則(すなわ)ち男女の見(けん)盡(ことごと)く絶(た)ゆ。

故(ゆえ)に人常に事後の悔悟(かいご)を以(もっ)て臨事(りんじ)の痴迷(ちめい)を破らば、則ち性(せい)定(さだ)まりて動くこと正しからざるなし。

腹いっぱい食物を食ったあとで、味わいのことを思ってみると、濃(うま)いの淡(まず)いのという区別はすっかり消えてしまって、格別(かくべつ)、何が食べたいとも思わない。

また、房事(ぼうじ)を終えた後に、淫欲(いんよく)のことを思ったところで、これ、また、男女の情交に関する観念、想いは、悉くなくなってしまっている。


 

この事は、単に色と食の二つに止(とど)まらず、

すべての欲情が斯(か)くの通りである。

 快楽を貪(むさぼ)った後では興味は真(まこよ)に索然(さくぜん)たるものである。

故に、人は、常にその事の終わった後に生じて来る後悔の念を前もって心の上に置いて、まさにその事に着手せんと欲する時の、愚痴(ぐち)の迷いをぶち破ったなら、本心は端然(たんぜん)として居って動着(どうちゃく)せぬから、動作(どうさ)をすることは何事に限らず、正しからずということがないというものである。
 
 

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廬山煙雨浙江潮,
  未到千般恨不消。
  到得還來無別事,
  廬山煙雨浙江潮。

  


廬山の煙雨  浙江の潮,
未だ到らざれば 千般  恨 消えず。
到り得 還り來れば  別事 無し,
廬山の煙雨  浙江の潮。




蘇軾(蘇東坡居士)

銭塘江逆流
銭塘江逆流は杭州から東北の方向へ45キロの塩官鎮に位置しています。銭塘江は長さ610キロで、中国第四番目の川です。源は安徽省の休寧市にある標高1144メートルの仙霞嶺山脈です。月と太陽の引力、銭塘江の川の形などとも関係で、銭塘江逆流の形成されています。世界中に逆流を見える川がただ2本しかありません、一つは銭塘江で、もう一つは南アメリカにあるブラジルのアマゾン川です。銭塘江の潮は「海寧の潮」あるいは「浙江の潮」ともいわれます、毎年の中秋の頃に潮が満ちてくるときに、満ち潮を見に来る人々は昼も夜も絶えありません。銭塘江には潮を見る所は三カ所あります。旧暦の七月から八月までの秋分の前後は潮の落差が大きく、とても壮大な景観です。
 
※蘇軾:北宋の詩人。北宋第一の文化人。政治家。字は子瞻。号は東坡。現・四川省眉山の人。景祐三年(1036年)~建中靖國元年(1101年)。三蘇の一で、(父:)蘇洵の老蘇、(弟:)蘇轍の小蘇に対して、大蘇といわれる。

※廬山煙雨:廬山のきりさめ。 *第一句(起句)と第四句(結句)とが同一にできるのは、近体詩では、それの平仄の配列が同じ(
○○●●●○○(韻))ため。このような作品例は極めて少ない。なお、この作品には禅の深い意味が蔵されていると謂われるが、ここでは、通常の詩作として解釈する。「廬山と物の見方」については、蘇軾に『題西林壁』「橫看成嶺側成峰,遠近高低各不同。不識廬山真面目,只縁身在此山中。」がある。
 ・廬山:〔ろざん〕江西省の九江市の南にある山塊(『中国第百科全書 中国地理』、『中国歴史地図集』)。陶潛は南山と詠ったこともある。
陶淵明の隠棲した近くにある山。
 ・煙雨:煙るように降る雨。きりさめ。
晩唐・杜牧の『江南春絶句』に「千里鶯啼綠映紅,水村山郭酒旗風。南朝四百八十寺,多少樓臺烟雨。」とある。

※廬山煙雨浙江潮:廬山のきりさめと、浙江の銭塘江の潮の遡上(とは天下の奇観である)。

 *「廬山煙雨浙江潮」の句の読み下しで、「廬山は煙雨 浙江は潮」と読むのを見るが、日本古典の『枕草子』「春はあけぼの…夏は夜」のような日本語古語の係助詞(ある事柄を取り立てて強調し、他と区別しつつ判然と提示意を表す)の「…は」とするのは適切か。このような句の構成の場合、普通には「廬山の煙雨  浙江の潮」と、格助詞の「の」を入れて読み下す。
漢語で謂えば「廬山(者/是)煙雨 浙江(者/是)潮」なのか、「廬山(之)煙雨 浙江(之)潮」なのか。ここは、「廬山(之)煙雨 浙江(之)潮」で、「廬山の煙雨  浙江の潮」と読み下すのが通常では。 ・浙江潮:中秋の明月の頃、浙江省の銭塘江を潮が遡上することを謂う。
中唐・白居易の『憶江南』二に「江南憶,最憶是杭州。山寺月中尋桂子,郡亭枕上看潮頭。何日更重游。」とあり、中唐・劉禹錫の『浪淘沙』に「八月聲吼地來,頭高數丈觸山迴。須臾卻入海門去,卷起沙堆似雪堆。」とあり、清末~・蘇曼殊は『本事詩』で「春雨樓頭尺八簫,何時歸看浙江潮。芒鞋破鉢無人識,踏過櫻花第幾橋。」と使う。
この外、秋瑾も屡々詠う。

※未到千般恨不消:まだ行っていない時は、いろいろと心に思い悔やむことが消えない。

 ・未到:まだ行っていない。 
・千般:〔せんぱん〕いろいろ。種々。さまざま。千万(せんばん)。 
・恨不消:心に悔やむことが消えない。
 ・恨:心に残り、(自分に対しての)うらみの極めて深いこと。残念がる。また、後悔する。ここは、前者の意。

※到得還來無別事:(しかしながら)帰って来てみれば、どうって事は無く。

 ・到得:行き得る。行くことができる。
 ・還來:戻ってくる。帰ってくる。 ・還:〔くゎん〕帰る。(元の状態に)戻る。帰る。
 ・別無事:別にどうって事は無い。 

※廬山煙雨浙江潮:廬山のきりさめはきりさめで、浙江の銭塘江の潮の遡上は、潮の遡上(に過ぎない)。

(中国HPより)
 
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夏日題悟空上人院  
     杜荀鶴
三伏閉門披一衲,
兼無松竹蔭房廊。
安禪不必須山水,
滅得心中火自涼。

三伏(さんぷく) 門を閉ざして  一衲(なふ)を 披(はお)り,
(くは)へて 松竹の  房廊(ばうらう)を 蔭(おほ)ふ 無し。

安禪 必ずしも  山水を 須
(もち)ゐずして,

心中に 滅し得て  火 自
(おのづか)ら涼し。 


※杜荀鶴:晩唐の詩人。杜牧の末子。大順二年(891年・昭宗)に進士に合格する。字は彦之。九華山人と号す。安徽省池州の人。
846(會昌六年)~904年(天祐元年)。

※夏日題悟空上人院:夏の日に悟空上人の寺で詩を作る。 ・夏日:夏の日。 ・題:詩を作る。 ・悟空上人:僧侶の名。
 ・院:てら。僧侶や道士の住むところ。

※三伏閉門披一衲:酷暑の候に門を閉ざして、衣を一枚はおり。 ・三伏:猛暑の候。酷暑の頃。陰陽五行説に基づき、①夏至後の第三庚(かのえ)を「初伏」、②第四の庚を「中伏」、③立秋後初めての庚を「末伏」の三つの伏。その「初伏」「中伏」「末伏」の「-伏」の総称。酷暑の間。太陽暦で七月中旬から八月上旬にかけてになる。

 ・閉門:門を閉ざす。 ・披:〔ひ〕はおる。また、ひろげる。ここは、前者の意。 ・衲:〔なふ〕僧衣。ころも。
※兼無松竹蔭房廊:くわえて、松や竹がしげって建物を覆うということも、ない。 ・兼:〔けん〕あわせて。くわえて。兼ねて。 
・松竹:松と竹。冬の寒さに耐えて緑を保つ植物。 ・蔭:〔いん〕おおう。かばう。かざす。しげる。動詞。 
・房廊:〔ばうらう〕小さな建物の廊下。

※安禪不必須山水:坐禅して三昧に入るには、山水のある景色、環境を用いることを要しない。 
「安禪不必+須山水,滅得心中+火自涼」となるが、意味から「安禪不必須+山水,滅得心中火+自涼」としたい。

 ・安禪:〔あんぜん〕坐禅して三昧に入ること。

盛唐・王維の『過香積寺』に「不知香積寺,數里入雲峰。古木無人逕,深山何處鐘。泉聲咽危石,日色冷青松。薄暮空潭曲,安禪制毒龍。」とある。
 ・不必:…するに及ばない。…を要しない。いらない。必要としない。 ・須:もちいる。 ・山水:山と水。山と水とのある景色、環境。

※滅得心中火自涼:心中の火を消した結果は、心外の火も自ずと涼しいものである。
 ・滅得:(…の火を)消した結果。消した結果。ほろぼした結果。
 ・心中:心の中。 
・自涼:「亦涼」ともする。その形で『碧巖録』第四十三則の円悟和尚の評唱に引用されている。
「滅却心頭火亦涼」(心頭を滅却すれば火も亦涼し)。

中国HPより



 
 

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心頭を滅却すれば火もまた自ら涼し、甲斐の恵林寺、快川和尚辞世のいきさつ


 

快川 紹喜(かいせん じょうき)禅師は、文亀2年(1502年)-天正1043日(15824月25日)戦国時代から安土桃山時代の臨済宗妙心寺派の僧である。

諱(いみな)は紹喜(じょうき)。字(あざな)は快川。

俗姓は土岐氏、美濃国の出身という、美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職となる。美濃国主、斎藤義龍との間で「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教上の混乱が起こり、一旦美濃を離れるが、義龍の死去に伴い帰国。

永禄7年(1564年)、甲斐国武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺。武田氏と美濃斎藤氏との外交僧の役割なども務める。

甲斐では信玄に機山の号を授けた。

『甲陽軍鑑』によると、永禄8年(1565年)年10月初旬、信玄の嫡男・武田義信が謀反を企てるが事前に察知され、義信は甲府・東光寺に幽閉されると、長禅寺住職・春國光新、東光寺住職・藍田恵青とともに信玄・義信間の調停を試みるが、永禄10年(1567年)1019日に義信は東光寺において自害。

元亀4年(1573)412日、信玄が「西上作戦」の途中、信濃国伊那郡駒場において死去する

信玄の死は秘匿され、家督は四男の武田勝頼が継承した。

天正4年(1576年)4月、快川禅師を大導師に恵林寺において勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた(『天正玄公仏事法語』)。

天正(1581年)、正親町天皇より大通智勝国師の号を賜る

天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡する。これにより武田領内が混乱すると、恵林寺住職快川和尚は信長に敵対した佐々木次郎(六角義定)、三井寺の上福院、足利義昭の家臣の大和淡路守らを恵林寺に匿い、織田信忠の引渡し要求を拒否。その後、恵林寺は織田氏による焼討ちにあい、快川和尚は一山の僧とともに焼死した。
 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Erinji_main_gate.JPG/250px-Erinji_main_gate.JPG

恵林寺三門。右の柱に「安禅不必須山水」、左の柱に「滅却心頭火自涼」の偈が記されている。

 

弟子に伊達政宗の教育の師として、「滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に」という言葉でも知られる、虎哉宗乙がいる。

天正10年(1582年)に恵林寺において焼死したとき、「安禅不必須山水 心頭滅却火自涼」(安禅必ずしも山水を須(もち)ひず 心頭滅却せば火も自づと涼し)の辞世の句を残したといわれている。この言葉は、碧巖録、円悟禅師の評唱に引かれている。元来、晩唐の詩人杜苞鶴(846 - 904年(907年?))の詩、「夏日題悟空上人院」の転結句が出処といわれている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山本勘助(菅助)像

(みえ四日市禅会歴女)

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みえ津久居摂心会坐禅会)のお知らせ

 この度人間禅三重四日市禅会では、第1回みえ津久居摂心会(坐禅会を開催します。

現代は様々な情報が目から耳から入って来ます。坐禅を行じることで日頃のストレスや悩みから離れて、自分と向き合う時間を作ることができます。そして心身をリラックスさせ気持ち新たに仕事や社会生活に前向きに取り組んでいる人増えてきています。

禅の醍醐味とは?

一般社会では「禅=坐禅」と認識されていますが禅の醍醐味は臨済宗正脈の師家への参禅、つまり古来より祖師方により伝えられてきた公案を通してお釈迦様の悟りを追体験することで、お釈迦様の悟りをしっかり体得することが出来ます。

臨済宗の正脈の師家を拝請して古来からの公案によって.転命開悟を図ることが出来る参禅会です。一般社会では単なる坐禅会と認識されていますが、正脈の師家への独参する会は三重一円ではわれわれ人間禅だけであります。
 老若男女、学生さんから主婦お年寄りまで、坐禅は初めてという方にも親切に初歩からご指導致します。 

日時 平成30年8月24日18:0026日(日)
師家 人間禅師家 金剛庵要道老師

場所/会場:津市久居・近鉄久居駅より徒歩5分 くもん久居新町教室・熊谷邸 
 会費=500円(ポルタの行事のみ参加者)、食費=300円/食、懇親会=1,000円。子供無料。
 宿泊対象者は遠方の方のみとし、寝具は要相談。駐車スペース、数台可能、要相談。

主な予定・日課;

8月24日;1800集合 18;30〜10;00;オリエンティション、結制茶礼、坐禅、参禅

8月25日;5;00〜起床 5;30~7;00 静坐、休憩、参禅 7;00~8;00お茶席、朝食 8;30~10;00作務 10;30~11;30静坐、提唱、参禅 12;00~14;00昼食、作務 13;00~1700講演、剣道講話、坐禅(数息観)実習、初心者面談、坐禅、参禅、など(ポルタが主会場) 18;00夕食・懇親会(久居新町1095-1、くもん久居新町教室手前・熊谷邸)22;00就寝

8月26日(日)、11;40までは前日と同じ;11;45~円了茶礼で終了。

  途中出入可です。その都度、禅会長にお申し出下さい)

8月25日(土)・

1616;30 会場

「ポルタ久居」駅ビル3階・
文化交流室

「坐禅の効用」

数息観実習
 

http://nagoya.ningenzen.jp/uploads/ckeditor/images/20180520001741.png

講師、田中孝幸(太玄)

人間禅みえ四日市禅会長・エンジニアリング(株)勤務

禅修行歴12年・宏道会員(人間禅剣道修身段)

動く禅直心影流、法定之形1本・小川×田中ー古武道剣道型稽古と講話・実習

13;00~16;00分

インストラクター、小川友之(韶春)

四日市ときわ水曜静坐会長・(株)建設会社勤務

多年、禅と古流剣道修行歴を所持

http://nagoya.ningenzen.jp/uploads/ckeditor/images/20180704112548.jpg

お問い合わせ先
http://nagoya.ningenzen.jp/uploads/ckeditor/images/20180520003524.jpg

熊谷正幹(竜安)TEL:080-1015-6004     Mail:hwnus352@ybb.ne.jp
 

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ニルバーナとは?正法を摂受する誓い、在家の禅、勝鬘経の世界㉙
 

十大受の最後は摂善法戒(しょうぜんほうかい)です。

十、世尊、我れ今日より乃(いま)し菩提に至るまで、正法を摂受して、終に亡失せず。何を以ての故に、法を亡失するものは即ち大乗を忘る。大乗を忘るるものは即ち波羅蜜を忘る。波羅蜜を忘るるものは即ち大乗を慾(おも)わず。若し菩薩大乗に決定せざるものは、即ち正法を摂受する慾(おもい)を得ること能わず。
所業(しょぎょう)に随いて入りて永く凡夫地を越ゆるに堪忍せず。
 我れ是の如きの無量の大過を見、また未来に正法を摂受する菩薩摩訶薩の無量の福利を見るが故に、此の大受を受く。

 
 前にも述べましたように摂善法戒(しょうぜんほうかい)というのは一切の善法を修得し、善を行じていくことです。
 止悪(しあく)・作善(さぜん)という観点からいえば積極的に善を作(な)す基本となるべきもので、これを守れば一切の善行が自らほとばしり出てくるばかりか、一切の悪行もまた自ら断たれることになりますので、十大受の眼目であり、また勝鬘経の眼目というべきものです。
 では、その大切な誓いとは何かといえば「正法を摂受して忘失せず」ということです。


 正法とは真理のこと、摂受とは享受で摂(おさ)め受(う)ける意味ですが、それは真理を知識として知り、学問として理解することでなく、身に摂(おさ)め受(う)ける意味で、いいかえると体得することです。
 お釈迦さまは当時のインドで大問題にしていた涅槃(ねはん)ニルバーナとは何か?
 この問題を自ら解明するために身命材(しんみょうざい)をなげうって修行されたのですが、ニルバーナというのは唯一絶対の真理ことです。

お釈迦様がこの真理を自ら解明したうえ、これを人々のために説いたのが仏法です。

説いたといっても、お釈迦様自ら「一字不説(いちじふせつ)」と白状されているように、結局、仏法は説いて説けるものではなく、自ら悟り、体得しなければならないものです。

ただ、自ら体得した真理を言句によって開き顕わされたのが説法です。

したがって仏法は各自の努力によってお釈迦さまが悟ったとおりに真理を体得しなければならないものです。

正法を摂受するとは、そのことをいったもので、この世の真理である如是(にょぜ)の大法を悟り、人間いかにあるべきか?

自分はいったい何者なのか?どう生きればよいのか?どうあればよいのか?を真理通りに悟り、体得していくことです。

それはいいかえると大乗仏教の眼目でもあり、勝鬘夫人が十大受の最後にこれを誓っておられるのはもっともなことです。

夫人はこのあとで正法を摂受するとはどういうことなのかについて獅子吼されています。

それは「摂受正法章」として経典では別に1章を設けておられるので詳細はその時に譲り、ここでは十大受の最後に正法を摂受する誓いをたてられたことだけを紹介しておくことにします。

(小野円照著「勝鬘夫人の告白」より)
 
 

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尻ぬぐい,坐禅の効用⑥

カテゴリ : 
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執筆 : 
人間禅東海岐阜・三重 2018/7/13 4:14

 
この三段階のそれぞれが大切であるばかりでなく、その間(ま)と間がまた実際に大切といえるでしょう。
先ずは、すぐ段取りにとりかかれること、次にその段取りがすぐ真剣な取り組みに繋がり、それが終了するとすぐにしっかりと後始末の実行につながる。
これが坐禅を積み三昧が身についてくると自然にできてくるのです。
古人は「坐禅を積み三昧が身についてくる過程を、「一寸(いっすん)坐れば一寸の仏」と表現しています。
まさに坐禅の効用として「段取り・真剣・尻ぬぐい=締めくくり」がしっかり実践できるようになるのです。
これらが坐禅の効用のひとつであり、受験生の学習態度や、もっと、一般的に大人の仕事力に、坐禅の行を基盤にした「人間形成の禅」は素晴らしい効果を発揮するものと確信しています。

(丸川雄浄著「坐禅の効用」より)


 
青嶂庵荒木古幹老師書「泥多ければ佛大なり」
 
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「段取り」がしっかりできれば大体仕事はできたようなものだといわれるくらいであり、また終わってからの、「後始末」がなかなかできずやりっ放しになって、前段で述べたようにまた明日やればよいと先きのばしにして結局有耶無耶(うやむや)になりやすいものです。
単に仕事ができればそれで良いというものではないものがそこにあるのです。
プロの将棋の世界でも、負けがわかってからの終局の形を大切にすると聞きますし、弓道でも的を目掛けて矢を放った後、的を射抜くと同時に体勢が崩れないこと「残身(ざんしん)」に注目します。
東京オリンピックの種目に昇格した沖縄発祥の空手道の型演舞においても、最後の「残身」はもっとも重要視されます。
高段者の剣道の試合では、勝負の決まった後の勝者も敗者もその処し方が極めて大切といわれているようです。
まさにこれも尻ぬぐい・後始末の大切なところです。



7月12日、灼熱の千葉・鎌ヶ谷北海道日本ハムファイターズ二軍キャンプで汗を流す「文武両道のプロ野球選手」を目指す、宮台康平投手。(産経スポーツ中田愛沙子記者提供)

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坐禅の効用④坐禅と段取り・真剣・尻ぬぐい

坐禅の効用の第一として、[すぐ仕事に、勉強に取りかかれる効果]
を前回であげましたが、これにならぶ効果として、「段取り
真剣尻ぬぐい=締めくくり」ができる効果があります。 

この効果は人間形成の素養として大切なことです。人間禅創始者の耕雲庵(こううんあん)立田英山老師から始まって、諸先輩がたが法話や講話でご自分の人生体験を織り交ぜ繰り返し述懐し話されてきた言葉でした。

これは実社会では極めて大切な処世の指標といえます。

これだけで、坐禅の効用の一項目ともなる深く広い内容を含んでいますが、これはここの「すぐ仕事に取りかかれる素養」と似ており、「すぐ取りかかれる」がしっかりできるようになれば、「段取り真剣尻ぬぐい=締めくくり」もできてくるようになります。

人のなす全てのこと(作務仕事勉強学習など)は、段取りの部分と、真剣に遂行する部分と、遂行し終わってからの後始末の三段階から成り立っており、真ん中の真剣に取り組むは誰でもわかることですが、その前後が軽視されがちです。

(丸川雄浄「坐禅の効用」より)

http://nagoyazen.ningenzen.jp/uploads/ckeditor/images/20180707133624.jpg

耕雲庵立田英山老師書「念念正念歩歩如是(ねんねんしょうねんほほにょぜ)」、経行(きんひん)する際の凝念として心中で唱えて工夫するようにその著書「数息観のすすめ」で説いておられる。


 
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三河国(豊橋・豊川)の禅修行者、道鬼居士(恵林寺で出家入道?)・山本勘助


近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸期の段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことが確認された。

ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)にある学者が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」と指摘している。

武田家重臣の高坂弾正著、『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が「甲州法度之次第」を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、生年は明応2年(1493年)となる.
 

また、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。五ヶ条之事」によると、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。

「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、信玄に機山の号を与えた快川詔喜和尚の恵林寺で同時期に出家し、川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには多少矛盾の存在が指摘されている。


山本晴幸生誕の地(豊橋市・加茂町)。

江戸前期「甲陽軍鑑」などには三河国宝飯郡牛窪(豊川市牛久保町)の出とある。
江戸時代後期成立の「甲斐国志」によれば駿河国富士宮郡山本(静岡県富士宮市山)

 

生年には、文亀元年(1501年)説もある。

『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年(1561年)9月10日の川中島の戦いで討死したとされる。

近世には武田二十四将に含められ、五名臣の一人にも数えられて、伝説的軍師としての人物像が一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、実在について長年疑問視されていた。

近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている

武田家の菩提寺である甲州市塩山小屋敷の恵林寺近在の塩山三日市場には不動明王像が祀られた堂があり、この像は「勘助不動(さん)」と呼称されいて、塩山小屋敷・塩山三日市場の両地区において管理され、像高は約40センチメートル(台座下から後背頂部まで58センチメートル)で、堂内正面の仏壇に安置されている

「勘助不動」は不動明王特有の「半眼」であるが、『甲陽軍鑑』における山本勘助と同様に右目が塞がれている。1890年(明治231月)の恵林寺住職・圓應和尚が記した由緒書『勘助不動尊再建有志名簿』によれば、武田氏の滅亡後に信心深い男が本像を刻み、毎年128日に祭礼が行われてきたと伝えている。


山本勘助(松本楓湖作、恵林寺蔵)生年;明応2年(1493)、没年;永禄4年9月10日(1561年10月18日)
改名;山本源助、勘助、山本勘助、晴幸、道安 号;道鬼斎
別名;菅介、勘助 戒名;鉄巖道ー禅定門(禅宗)、天徳院武山道鬼居士
墓所;長野市、長谷寺(豊川市) 主君;牢人後 武田信玄
氏族;山本氏、大林氏 父;山本貞幸 母;大林入道の娘、安
兄弟;吉野貞継、石松、光幸、晴幸、鶴(桑名城の室)、貞重
子;山本菅助(二代)、下村安笑(三男)

古戦場川中島、千曲川堤防沿い(松代側)の山本勘助終焉之地に立つ墓碑、碑には「簡単な経歴とともに,出身」については、ただ東海地方の出とだけ刻字されている。明治期に描かれた月岡芳年の「勘助討ち死の図」は凄まじい)(堤防下には信濃禅会坐禅会場、三和建設社屋が建つ)
 
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